ヨシハルさんが投稿した西郷の局の菩提寺の宝台院・徳川慶喜のご謹慎の地・駿府96か町の名刹に関するカスタム事例
2021年12月09日 13時32分
2020年9月に登録です。住まいは静岡市で66歳です。。1994年家庭の事情で購入を断念しました、夢をあきらめきれず、2017年3月に1995年式のスーパーホワイトⅡのsw20のMR2GT-Sを購入しました。。2020年8月にアメリカ製のJMタービンTS26に交換して+燃料添加剤elf.E-13FormulaTune注入。推定出力270〜275psです。2021年BLITZのアドバンスクリーナーとcuscoのターボパイプに交換して現在最大ブースト1.0kgに設定してます。
徳川家康の側室で、2代将軍秀忠の生母【西郷の局】の墓地があります、浄土宗、金米山宝台院です。徳川300年の間に、徳川家の厚い保護を受けておりました。また明治元年7/23に15代将軍慶喜がご謹慎となり、宝台院に入り9/28に謹慎解けるまで10畳と6畳の二部屋で起居しました。勝海舟と面会したのもこの部屋でした。現在、静岡駅北口から徒歩9分位の場所です。国道1号線を400m位の国道1号線と362号線の交差点を渡り1号線に面しており、裏通りが入口になっております。
西郷の局の墓です。西郷の局は、通称【お愛の方1552〜1589】父は遠江の戸塚忠春、母は三河の豊橋の西郷氏で今川氏の傘下に過ぎませんでした。、最初の夫は、三河の西郷義勝で、一男一女設けており、夫は戦死して先立たれ、後に母の弟の西郷清員の養女になり、1578年27歳の時に徳川家康に仕え、翌年に2代将軍秀忠(1570〜1632)、松平忠吉(1580〜1607尾張清州藩主)を生みました。美人で温和で誠実な性格であったために家康から最も信頼されておりました。この頃、家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原の合戦、小牧長久手の合戦と戦に明け暮れた最も苦難の時代でした。苦しい浜松城の台所を仕切った糟糠(そうこう)の妻(意味は酒粕と米ぬかの熟語で、貧しい時にも、ろくに食べることが出来ずとも、連れ添って苦労を共にして来た妻)であったと言えます。1586年12月に苦難であった浜松時代を終え、名実共に東海の覇者となった家康と共に駿府に入りました。家康の陰の立役者だった西郷の局は、浜松時代の疲れが出て、天正17年5月(1589年)38歳の短い生涯を終えました。後年に秀忠は母のために盛大な法要を営みその霊をなぐさめました。
この付近は、駿府96か町の1つ【下魚町(しもうおちょう)】と呼ばれていました。用宗漁港から運ばれた魚介類を扱う商人が集まり、城中御用の魚問屋が置かれました。元禄5年1692年の下魚町の戸数は38戸、人口は236人でした。1945年常磐町に編入されました。
宝台院の裏側が、国道1号線です。向こうの高層ビルは駅前の27階建ての葵タワーです。私が小学校時代の時に東海道本線を超えて、駅南に行くときにこの付近に、螺旋状に上り下りします、宝台橋が掛かっておりました。
江戸時代の駿府絵図より、赤い矢印が、宝台院です。緑色が武家屋敷で、桃色が寺社地です。