フーガの奈良県吉野郡吉野町吉野山・吉野神宮・祭神 後醍醐天皇に関するカスタム事例
2018年11月06日 00時48分
フーガに乗って6年半になりました(_ _) ええ年こいて未だに車いじり止めれません(^_^;) 匍匐前進で進化していきたいと思うので( ̄▽ ̄;) ヨロシクお願いします(_ _) 注)基本来るものは拒まず去るものは追わずですが(^_^;) 1度も投稿の無い人は受けませんので(>_<) (お礼のコメント入れられないので)(^_^;) 1度投稿してからフォロー頂けたら助かります(⌒0⌒)/~~ (お礼のコメント入れられるので)(^_^;)
こんばんわ(⌒0⌒)/~~
今回は先週木曜日に吉野をぐるりと回った最終地点吉野神宮パート2です(⌒0⌒)/~~
奈良県吉野郡吉野町吉野山のチラッと見えてる大鳥居横の駐車場です(⌒0⌒)/~~
吉野神宮の主祭神は第96第後醍醐天皇です(⌒0⌒)/~~
後醍醐天皇は在位途中に二度の廃位と譲位をへているそうです(・・;)
吉野神宮内の集参堂をバックにパチリと斜めおちり(笑)(⌒0⌒)/~~
鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反湯に遭ったために大和吉野に入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立したそうです(・・;)
吉野神宮境内案内図です(⌒0⌒)/~~
案内図は大鳥居横にあります(⌒0⌒)/~~
前回アップした鳥居は左下の鳥居になります(⌒0⌒)/~~
話を戻して(^_^;)
足利尊氏の離反
1.建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えるなど新政から離反したそうです(・・;)
太陽と紅葉とホイールかな(^_^;)
2.後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じ、義貞は箱根・竹ノ内の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破ったそうです(⌒0⌒)/~~
集参堂向いておちりだす(笑)(⌒0⌒)/~~
3.尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得た後に再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はそれを退け、義貞と正成に尊氏討伐を命じる。しかし新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れたそうです(⌒0⌒)/~~
吉野神宮の敷地内の各神社とその主祭神が書かれてます(⌒0⌒)/~~
次に南北朝時代にはいります(⌒0⌒)/~~
1.足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利側の和睦の要請に応じて、三種の神器を足利方に渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設したそうです(・・;)
吉野神宮の大鳥居から本殿まで一直線です。(⌒0⌒)/~~
一番手前が神門で少し離れて二番目が拝殿となり弊殿で本殿になります(⌒0⌒)/~~
斜め横からおちり(笑)(⌒0⌒)/~~
2.話を戻します(^_^;)
なお、太平記の伝える所では、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされます。(・・;)
3.廃帝後後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器を贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代がはじまりました(・・;)
4.後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に命じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとしたそうです(・・;)
横おちり(笑)(⌒0⌒)/~~
5.しかし、劣勢を覆す事が出来ないまま病に倒れ、延元4年/歴応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた、義良親王に(後 村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪還を遺言として崩御しました。享年52才(満50才没)
摂津国の住吉行宮にあった後 村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の浄厳浄土寺において、後醍醐天皇の大法要を行う。また尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営したそうです(⌒0⌒)/~~
今回は先週木曜日に吉野周辺を回った最終地点の奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座する吉野神宮大鳥居側の駐車場で撮りました(⌒0⌒)/~~