86のドライブ・愛知・岐阜・天下分け目に関するカスタム事例
2021年11月28日 13時46分
関ヶ原の戦いの決戦地!
東軍と西軍に分かれてぶつかった関ヶ原の地。
東軍に寝返る約束なのに戦が始まっても動かない小早川秀秋。痺れを切らした徳川家康が小早川軍の陣地に威嚇射撃をしたところ、びびった秀秋は東軍に寝返り勝敗が着いた、というのが通説ですね。
でもね、この通説を覆す新説があるんですよ。
それは、小早川秀秋は最初から東軍に寝返ることを決めており、開戦直後に寝返った、というもの。
そもそも小早川秀秋は豊臣秀吉の養子として天下人の後継者の可能性が高かった人物。後に秀吉に捨てられてしまうが、それでも豊臣家と仲の良い小早川の養子に移っているので、誰がどう見ても西軍に付くべき存在だった。
でも秀秋自身は、秀吉の跡継ぎとして育てられたのに、秀吉に嫡男、捨(すて。幼少期に早逝)、拾(ひろい。後の秀頼)が誕生すると急に厄介払いされている。この恨みから内心は徳川家康に味方したかったようだ。
とはいえ秀吉の一族である者が東軍に味方したいといっても東軍の人は信じてくれない。
東軍に合流しようにも秀秋のいた関西圏は西軍が圧倒的に強く、伊勢地方までも西軍が征圧しきってしまった。
まわりは西軍メンバーばかりで身動きも取れない。
そこで選んだのが、徳川家康自身が参陣する関ヶ原の地で東軍に寝返る、というものだったんだね。
それはともかく、関ヶ原は歴史探訪には欠かせない地と言えましょう。ぜひお越しになってください。
石田三成の旗印、大一大万大吉。
一人が皆のため、皆が一人のために頑張れば、世の中は平和になる、という意味が込められているよ。
関ヶ原には各武将の陣となった山があるので登ってみたいね。
笹尾山 石田三成(滋賀県代表)が布陣。西軍本陣。なお西軍総大将の毛利輝元は大坂城でお留守番。
天満山 島津義弘(鹿児島県代表)が布陣。通説では三成の部下に無礼があった、義弘の献策を三成が棄却したとかで三成のことが嫌いになり、戦わなかったとか。
徳川家に追い詰められた島津家だが、300年後、今度は島津家が徳川家を追い詰めることになる。
松尾山 小早川秀秋(岡山県代表)が強奪に近い形で布陣。16,000もの兵を率いる19歳。相当なプレッシャーがあったことだろう。2年後、謎の死を遂げる、、、
南宮山 毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊ら毛利勢(中国地方代表)が布陣。三成嫌いな吉川広家が徳川家康と密約を交わしていたので、総勢20,000くらい兵がいたのに一切動かず。
桃配山 徳川家康(東京都代表)が布陣。立場上、一応豊臣家臣ですw