フーガの草野球の秋季近畿大会・伏見桃山城に関するカスタム事例
2018年10月14日 20時41分
フーガに乗って6年半になりました(_ _) ええ年こいて未だに車いじり止めれません(^_^;) 匍匐前進で進化していきたいと思うので( ̄▽ ̄;) ヨロシクお願いします(_ _) 注)基本来るものは拒まず去るものは追わずですが(^_^;) 1度も投稿の無い人は受けませんので(>_<) (お礼のコメント入れられないので)(^_^;) 1度投稿してからフォロー頂けたら助かります(⌒0⌒)/~~ (お礼のコメント入れられるので)(^_^;)
こんにちわ(⌒0⌒)/~~
まだアップしていない画像があるんですが(^_^;)
今日は早朝から草野球の近畿大会の為に桃山運動公園野球場に来て伏見桃山城の駐車場で撮りました(⌒0⌒)/~~
伏見桃山城(伏見城)は京都市伏見区桃山町大蔵にあります(⌒0⌒)/~~
伏見城は過去に三度築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために伏見指月(現在の伏見区桃山町秦長老あたり)に建設を始めたそうです。(⌒0⌒)/~~
この時築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と読んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期に別分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わるそうです。(⌒0⌒)/~~
このため指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直される事になり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長三年)に城内で没したそうです。( ̄▽ ̄;)
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大阪城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がその城に入り政務を取ったそうです。(⌒0⌒)/~~
関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成の西軍に攻められて落城し建物のほとんどが焼失した。
焼失した伏見城は、1602年(慶長七年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和五年)に廃城とされた。
伏見城の跡には桃の木が植えられて桃山と呼ばれる様になり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれる事になったそうです。(⌒0⌒)/~~
1964年(昭和39年)に遊園地『伏見桃山城キャッスルランド』が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして五重六階の大天守閣と、三重四階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が六億円(当時の金額)をかけて、鉄筋コンクリート構造で造られたそうです。(⌒0⌒)/~~
野球の試合の方は、
第一試合 奈良代表5対1京都代表で勝ちました(⌒0⌒)/~~
第二試合準決勝 奈良代表4対0和歌山代表でウチのエースが連投でノーヒット・ノーラン達成で、勝ち、来週21日の決勝に進出しました(⌒0⌒)/~~
今回は山城公園野球場で近畿大会の試合に行った時に駐車場から伏見桃山城をバックに撮りました(⌒0⌒)/~~