ボクスターの婚活ぬま太郎さんが投稿したカスタム事例
2021年08月12日 20時09分
明治航空基地趾に行って来ました。
明治航空基地は、安城市明治村にあった海軍省の航空基地であります。
この基地では、主に戦闘機、攻撃機搭乗員の養成が行われました。
戦局が極まる昭和19年には、アメリカ軍の戦争犯罪日本焦土作戦で、民間人への虐殺を繰り返すB29邀撃を目的とし、この基地に、第二一○海軍航空隊が設立されました。
しかし翌年、マグニチュード6.8の三河大地震が発生しました。
この地震によって、半田市の中島航空機製作所が全壊し、海軍省の艦上爆撃機の生産は出来なくなりました。これを秘匿する為、大本営は直ちに三河大地震を隠蔽、緘口令を敷きました。
これにより政府からは、被災地への救援救済が一切なされませんでした。
そんな中、第二一○海軍航空隊だけが、被災地の救援に奮闘したと伝えられています。
この地震で、碧南市西尾市だけで2652人の方が亡くなりました。
そして、この地震の後、第二一○海軍航空隊の彗星三三型23機は、日本海軍省最後の作戦、天一号作戦に参加し、戦艦大和を沖縄まで防衛する任務に当たり、鹿児島県出水基地より出撃、全隊員が、その尊い命を散華なさいました。
明治航空基地を慰霊する東端八剱神社。
広大な基地の跡地は、宅地や農地などになり、現在基地があった事がわかる物は、あまり残っておりません。
コレは、老人ホーム入り口に残る燃弾庫。
このドーム状の建物に、燃料を入れたドラム缶や弾薬を隠していました。
油蒸留場趾。
すぐ横の畑の中には、もう一つの燃弾庫がありました。空爆に耐えられるように作られている為、壊す事が出来ないようです。
車の向こうにある小さなレンガが、油蒸留場趾です。あらかた解体されたという事です。
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