MR2のAW・AW11・毎月11日はAW11の日・AW誕生話に関するカスタム事例
2022年05月11日 17時31分
全国11億人のMR2ファンの皆様、こんばんは😃
毎月11日はAW11の日😃👍
AW2台でドライブ行くで〜😃
知ってる人は知ってる(当たり前だけど)🤣、今回はAW誕生秘話👍
「常識では考えられないようなクルマが、トヨタにはあってもよいのではないか」
1979年、トヨタ自動車五代目社長である豊田英二は、製品企画室の主査たちを集めて、そう語った。
カリフォルニア・ロサンゼルスより帰国し、実験部出身でありながらも主査となっていた吉田明夫。吉田は、米国滞在の中で得たヒントを元に、ある一台のクルマを考案していた。
この時、吉田が企画した車のコンセプトは、成熟した自動車社会と、複数台保有時代ににおいて求められるセカンドカー。「ミッドシップが大前提」「複数台保有時代の自分専用車」「個性的で斬新なスタイル」「高性能志向で高い操縦安定性」、そして「乗る楽しみを与える車」であったという。
このような本格スポーツとはまた違う、こういった概念のクルマならば、米国で地場を固めたばかりのトヨタブランドでも、それなりに市場を得ることが可能である。一方で、日本ではまだセカンドカーの概念が浸透してないものの、沈滞気味の国内市場における刺激剤として最適であり、また、そのようなクルマとクルマ社会の“芽”を育ててゆく必要がある。そう吉田は考えたという。
既に開発コンセプトはもちろん、マーケティング面でのデータもまとめてあった。それらに加えて、スケッチや使用するコンポーネントを指定した仕様書を作成し、提出する。他の主査たちからも、各種の提案書が出されたが、それらはあくまで既存の車種のマイナーチェンジにおけるインパネやデザインの変更と言った程度のもので、全くの新車種の開発という形を提案したのは吉田の企画書のみだった。
「製品にならなくてもいいから、先行試作車を一台作らせて欲しい」。吉田の嘆願もあり、この企画は1980年1月25日、豊田章一郎副社長も同席した技術企画会議において承認され、開発コード730Bの名で、開発・製作が始まった。
だが、トヨタにおいて、ミッドシップカーを作る上で一つの問題が存在した。ポルシェ914やフィアットX1/9などは、エンジン横置タイプのFF車のコンポーネンツを流用することによって、比較的容易に、かつ安価にMR車を開発することを可能としたものであった。しかし、当時の国産車の主流はFRであり、そもそもFF車というものがほとんど存在せず、ミッドシップ車に流用できるエンジン・パワートレーンが存在しなかったのである。
……そんな中、この問題を解決する一つの事件が、トヨタ内部で起きていたのである。
目的地に到着〜😁
誕生秘話さらに続く〜👍
……そんな中、この問題を解決する一つの事件が、トヨタ内部で起きていたのである。
~FF化の波と、4A-Gユニットの開発~
……西暦が1980年代に移る頃。日本車とトヨタは大きな転機を迎えようとしていた。
1970年代より、乗用車は駆動方式を従来のFRからFFへと移し、世界的にFF化の波が押し寄せていたのである。そんな時代、トヨタ自動車に揚妻文夫という人物がいた。5代目カローラ開発主査となった揚妻文夫技師。揚妻は、乗用車がFFとなることの必然性と必要性を痛いまでに感じていたのである。
しかしながら、当時の4代目のカローラはいまだにFR。そもそもトヨタにはエンジン横置き型のFF車という技術自体が存在せず、FRの機構を流用したエンジン縦置きのFF機構を持つ「ターセル/コルサ」しかFF車が存在しなかったのである。
「このままでは、いずれ世界に太刀打ち出来なくなる」
そう確信した揚妻は、5代目カローラのFF化をトヨタ上層部に提言する。しかし、トヨタ上層部は揚妻の提言を頑として撥ね退けたのである。反対した役員の中には、パブリカ・カローラ・セリカの生みの親であり、トヨタ自動車伝説の人物である長谷川龍雄専務の姿もあった。
続く〜😊