フーガの吉野川分水記念碑・300年前から考えられてたに関するカスタム事例
2018年11月08日 12時54分
フーガに乗って6年半になりました(_ _) ええ年こいて未だに車いじり止めれません(^_^;) 匍匐前進で進化していきたいと思うので( ̄▽ ̄;) ヨロシクお願いします(_ _) 注)基本来るものは拒まず去るものは追わずですが(^_^;) 1度も投稿の無い人は受けませんので(>_<) (お礼のコメント入れられないので)(^_^;) 1度投稿してからフォロー頂けたら助かります(⌒0⌒)/~~ (お礼のコメント入れられるので)(^_^;)
こんにちわ(⌒0⌒)/~~
今回は先週火曜日に吉野川分水の記念碑の前で撮りました(⌒0⌒)/~~
吉野川分水の記念碑は奈良県橿原市畝傍町になります(⌒0⌒)/~~
奈良盆地(以下大和平野)は奈良北西部一帯で標高40~80mの平坦な気候も温和で稲作に適し昔から稲作が発展してきた土地になります。稲作が発展する一方で農家の人を困らしたのは水不足で、昔の言い伝えで『大和豊作米食わず』があり、大和が豊作なら他の地域は多雨で凶作に、他が豊作なら大和は干ばつで不作という意味で、農家の人は井戸を掘ったり、水路から水を汲み上げたり(足踏み式水車等)様々な工夫をして来たそうです( ̄▽ ̄;)
奈良県の気候は寒暖差が激しく、大和平野は瀬戸内海気候に属し年間の降水量平均は全国より下回(全国は約1700mm奈良盆地は約1300mm)ってますが、三重県との県境の大台ヶ原は全国でも有数の多雨地帯(平均約4000mm吉野川流域が約2000mm)となり、また大和平野の周辺の山は急勾配であり、降った雨はすぐに下流に流れていき、このような特徴的な地形は安定とした水を必要とする農業に大きい影響を与えていました(>_<)
恒常的な水不足を解消するため、多くの溜池が作られ(現在でも約4100箇所)様々な工夫をして凌いで来ましたが、それでも解消には至らず、県は県営事業で4つの大きな溜池『(白川溜池「天理市」)(倉橋溜池「桜井市」)(いかるが溜池「生駒郡斑鳩町」)(高山溜池「生駒市」)』それでも大和平野全域を潤す事は出来ませんでした(>_<)
吉野川分水を最初に考えた人は約300年前の江戸時代に現在の御所市の庄屋さんだったそうです。それからその考えに沿って調査計画されましたが、難工事に多大な資金、また下流の和歌山からの反発と、中々進まず計画が動き出したのが昭和20年代に前後の復興国土計画要綱に「全国12水系における水資源の総合開発」が盛り込まれ、この中に吉野川と十津川が含まれたのがきっかけになりました(⌒0⌒)/~~
昭和22年に「十津川・紀の川(吉野川)総合開発計画案」が出されましたが、着工にはかなりの困難がありました。『奈良県には一滴の水もやれぬ』と言うのが和歌山の言い分で、過去に度重なる洪水被害に干ばつ、両方に苦しんで来た和歌山にすれば簡単に水は分け与えられないと言う訳です(・・;)解決するには奈良は勿論和歌山も用水不足をも解決する総合計画でないと解消は出来ないとして何度も話し合いを進め、昭和24年に合意に達しました(⌒0⌒)/~~
計画内容として、紀の川(吉野川)水系に『大迫ダム』『津風呂ダム』『山田ダム』十津川水系に『猿谷ダム』を更に頭主工、導水路、幹線水路等が、国営土地改良事業として建設されました。この事業では吉野川(紀の川)から大和平野へ水を運ぶだけでなく、太平洋に流れていた十津川の水を紀の川へ流すと言う二つの流域変更が行われた点が画期的でした(⌒0⌒)/~~
その後の吉野川分水の実現の歴史ですが(⌒0⌒)/~~
昭和25年に正式に調印される→昭和27年吉野川分水の工事が始まる→昭和31年に下渕から大和平野へ導水トンネルが完成し、試験的に吉野川の水が大和平野に送られ始める→昭和48年下渕首頭工・大迫ダムが完成する→昭和49年大和平野東西幹線水路完成→昭和62年吉野川分水に関わる全ての工事が完成する(⌒0⌒)/~~
今回は先週火曜日に奈良県橿原市畝傍町の吉野川分水記念碑をバックに撮りました(⌒0⌒)/~~