718 ケイマンのポルシェ・掩体壕・茂原海軍航空基地・茂原市に関するカスタム事例
2022年01月30日 06時25分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
CTの皆さん、掩体壕って知っていますか❓
えんたいごうと読みます‼️
掩体壕とは…
太平洋戦争中に作られた施設で、敵機の攻撃から戦闘機を隠し、守るためのものなんです😊
茂原市には、その掩体壕が複数あります‼️
その内の2つに今回行ってきました😊
ココは、第3号掩体壕というものです。
大型のものでは面積365平方メートル、高さ6.7メートルもあるんです😄
千葉県の海軍というと…
木更津や館山を思い出します😊
今でも木更津には、海上自衛隊の航空補給処や航空自衛隊木更津分屯基地、陸上自衛隊木更津駐屯地があります。
館山には、海上自衛隊館山航空基地があります。
ここ茂原はというと…
日中戦争が激化し、日米関係が悪化していた1941年(昭和16年)7月に国により策定された「国土防衛作戦計画要綱」に基づき、茂原中心部を南北に流れる阿久川の東側の現在の三井化学(株)茂原分工場敷地あたりを中心とした東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)に海軍航空基地の建設が決まりました。
そして、急ピッチで近隣住民を強制的に立ち退かせて茂原海軍航空基地の建設が始められたようです。
航空基地完成時に考えられていた滑走路の総延長は3kmだったのですが…
終戦までには全部が完成出来なかったわけですね。
今でも茂原市には、至る所に戦争の爪痕が残っているんです。
この掩体壕は茂原市が管理していますが…
その他の10箇所くらいの掩体壕も、この近くに点在しているのですが個人の私有地に建っているために側までは行けないようですね😊
さて、いろいろとググってみると…
茂原海軍航空基地を使用した航空隊は、第ニ五ニ海軍航空隊というようです。
第ニ五ニ海軍航空隊は、元山航空隊戦闘機隊を母体とし、第十一航空艦隊第二二航空艦隊に所属する航空隊として、1942年(昭和17年)9月に館山基地で開隊し、その後ラバウル、内南洋、硫黄島、フィリピンと転戦した歴戦部隊ということです。
この第二五二海軍航空隊は、当初定数が戦闘機60機の大きな部隊で、1942年(昭和17年)11月にはラバウルに進出、ラバウルを拠点としながら、ガダルカナル島撤退の支援にブインに展開、またラエやバラレ島の飛行場にも展開して、主にソロモン・東部ニューギニア方面の戦闘に従事したと書かれていました。
よくは分かりませんが、かなり活躍をされた部隊だったようですね😊
案内板があります💁♂️…
『掩体壕
太平洋戦争開戦直前の昭和十六年(一九四一)九月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約一五○戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。
司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約一○○○mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。
基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。
この壕は、土砂を壕の形に盛って転圧して筵や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積三六五㎡、高さは最大六m七○cmあります。
築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。
戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。
令和二年十二月二十五日
茂原市教育委員会』
掩体壕の中はこんな感じです。
実際にこの中に戦闘機が隠されたのかどうかは分かりません。
住宅地の中に、こういった戦争の爪痕が残っていることが凄いことですね…😮
場所を変えて…
こちらは多分、第5号掩体壕だと思います😊
こちらは私有地につき、少し遠くなりますが道路からのショットです。
こういった掩体壕がこの地域には取り壊されずに残っているのですね〜
戦争の爪痕をこうやって後世に語り継ぐことは重要なんでしょうね😌
1941年…
今から81年前のことなんですね。
コロナ禍で大変な世の中ですが〜
それでも普通に生活できていることに感謝しています🙂