718 ケイマンのポルシェ・宗吾霊堂・木内惣五郎・NO WAR🙅♂️に関するカスタム事例
2022年07月31日 05時22分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
今日は投稿枚数が多いわりには、何とクルマのpicは冒頭の一枚だけというCTの趣旨から逸脱したものになっちゃいましたぁ〜😅💦💦💦
はい、こちらは以前から一度訪れてみたかった「宗吾霊堂」です😊
神社仏閣⛩シリーズ第69弾です❗️
暑い🥵💦です。
境内入って直ぐ右手に「灯明台」があります。
さて、「宗吾霊堂」とは〜
公式HPから引用💁♂️します…
『当山は宗吾霊堂と呼ばれ広く知られていますが、正しくは鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂といいます。
境内は木々の緑につつまれ、春の花見に秋の紅葉にと年中人出が絶えません。
約10万平方メートルの広さに、年間参詣者は約250万人の人々が訪れる霊場です。
当山の縁起は桓武天皇の時代に、征夷大将軍 坂上 田村麻呂が房総を平定し、戦没者供養のため建立された真言宗豊山派の寺院です。
我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名 木内惣五郎)様は、今から350年前に佐倉藩国家老による暴政のため領民の救済を4代将軍 家綱公へ直訴し、その罪により公津ケ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられました。
この時、当山の住僧 澄祐(ちょうゆう)和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。
現在のお墓がそれで惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、宝暦2年(1752年)、百回忌の時に堀田 正亮(まさすけ)公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。
以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになり、寛政3年(1791年)、堀田 正順(まさなり)公は徳満院の院号と石塔一基を寄進しました。』
『男子の大厄の42歳の御年に尊い命を捧げられました。
これは偏に国家泰平・万民豊楽(国の安泰は私たち一人一人の生活の幸せにある)を願っての御生涯であり、その志を曲げることなく貫き通したのであります。
即ち、大衆の命・後世に生きる人々のために災厄を一身に背負い身代りになって下さったのであります。
宗吾様のこの尊い御生涯・志に触れると共にそのお徳にあやかり、幸福で豊かな21世紀を生きていくためにも義民宗吾様を祀る宗吾霊堂に、皆様お揃いでのご参詣・厄除けをなさることをお勧めいたします。』
という宗吾様を祀った寺院なんです😊
参道脇の燈籠も立派ですよね😊
暑い🥵せいか、参拝に訪れる人もまばらです💦
手水舎です。
めっちゃ風格がある手水舎ですね😄
こちらが「宗吾様御霊廟」になります😊
『宗吾様は承応2年(1653年)旧暦8月3日、直訴の罪により公津ヶ原刑場で磔刑、4人のお子様は打首の惨刑に処せられて、世のため人のために殉ぜられました。
この刑場跡に埋葬された宗吾様父子のお墓には、350年を経た今日でも多くの参詣者の方々の線香の煙が絶えません。』
ど〜ん❗️
こちらが「宗吾霊堂 仁王門」です😊
凄い迫力があり圧倒されます💦💦
公式HPには「仁王門」と案内されていますが…
案内板には「大山門」と表示されていますね😄
宗吾霊三百二十五年祭記念事業として、昭和五十三年に完成したんですね❣️
「仁王門」の脇に土産物屋さんが設置したベンチと灰皿があるので、まずは💦を拭って🚬一服してからお参りしましょう。
「仁王門」の阿形(あぎょう)尊です😄
HPによると💁♂️…
『仁王尊は身の丈8尺8寸にして、鋳造・金箔仕上げの我が国で唯一の金色仁王尊です。』
そしてこちらが吽形(うんぎょう)尊です。
ガラスが反射して撮りづらいです💦💦💦
「仁王門」を潜り、「大本堂」までの参道です😊
荘厳な感じがしますよね。
「大本堂」へ向かう前に、参道左手には…
「慈眼閣」があります😃
「慈眼閣」とは、檀信徒さんの休憩所や研修で使われているお堂です。
平成3年に大本堂屋根改修工事の際に建立されたようです。
はい、こちらが「大本堂」です。
大きいですね〜😄
HPによると💁♂️…
『大正10年に8ヶ月の歳月を費やし、十間四面総欅造り総銅瓦葺現本堂を再建。
ご本尊には、宗吾様の霊を祀っています。
当山は「宗吾霊堂」の名称で広く知られていますが正しくは真言宗豊山派の鳴鐘山 医王院 東勝寺が管理する仏堂の名前です。』
扁額には「宗吾霊」と彫られており、周りの彫刻も細かいですね😊
「佐倉義民伝」の歌舞伎演目の成功祈願のために、多くの歌舞伎役者さんがお参りに来て植樹しているんですね😊
松本幸四郎、中村勘三郎、中村勘九郎…
みなさん有名な方ですね😄
「東山桜荘子」という演目も佐倉義民伝のことのようですね〜
当然、上記の歌舞伎役者さん達は主人公の宗吾役だったんでしょうね。
「大本堂」の手前左手には「大本坊」があります😊
こちらも休憩や研修に使われるお堂です。
お堂の前にとても大きな石灯籠があります。
昭和17年に建立された木造瓦葺で建坪は160坪あるようです😊
300余畳の大広間があって、信徒講社の坊入り(お食事)・休憩・研修道場・宿泊等に現在も使用されています。
「薬師堂」の手前にはお地蔵さんがいました😊
「子育延命地蔵尊」です❗️
沢山のお地蔵さんがいますが、みんな顔が違うんですよ。
「大本堂」手前の右手には、「薬師堂」があります。
境内が広いので、あちこち見て回って汗だく🥵💦💦です。
HPによると💁♂️…
『屋根は入母屋造り銅版葺き、正面中央には千鳥破風を付けたお堂で、薬師瑠璃光如来をお祀りしています。
明治43年(1910)供養堂が消失したとき翌年に仮供養堂として建てられ、大正15年に(1922)に現在の本堂が出来ると、五霊堂となりました。
五霊堂とは宗吾様と共に直訴を行い、その罪で佐倉領を追放となった五人の名主を祀るお堂で、近年五人の御霊が本堂に移されたのをうけ、五霊堂の名は薬師堂と改称されました。』
「薬師堂」の横には「聖天堂」があります😊
こちらもHPによると💁♂️…
『昭和62年11月に建立された聖天堂には東勝寺を創建した征夷大将軍 坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の持仏と伝えられる大聖 歓喜天尊像をお祀りしています。
毎月、ご縁日にあたる1・16日には住職によりご供養が厳修されます。
聖天堂の前にお飾りする「商売繁盛・心願成就」を願う旗のお申込みは信徒部で受付けております。』
こちらは「宗吾殿」です😊
「大本堂」の右手に建立されたものです。
案内板💁♂️には…
『宗吾殿
宗吾殿は、江戸時代の義民で知られる下総国(現千葉県)成田市公津村の名主木内惣五郎(宗吾)を供養する堂である。
惣五郎は、江戸初期承応年間(一六五二〜一六五四)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民の為、藩主堀田正信公の時、直訴を図った罪により処刑された。
後年、佐倉藩歴代の藩主は、惣五郎の霊を絶えず弔い、百回忌などの法要を営んでいる。
その後、堀田正信公の子、正休の家系である近江国(現滋賀県)宮川藩主堀田家では浅草の下屋敷内に祀られ、供養されていた。
宗吾殿は、建立年代は不明だが宮川藩堀田家は享和三年(一八○三)に惣五郎の百五十回忌法要を営んでおり、この頃に建立された供養堂と考えられる。
江戸時代末期以降、惣五郎は芝居や講談の題材となり広く世に知られた。
明治十二年当主正養公は、一般に宗吾殿参詣を許可し、以来劇場関係者や庶民の信仰を集めている。
宗吾殿は、震災戦災の後、昭和二十八年に有志によって台東区寿三丁目十九番地十二号に再建供養されていたが、平成二十九年地区の開発などにより、本山この地に、移築建立したお堂である。』
百五十回忌法要まで藩主の子孫が続けるということにも😵ですね〜
祟りを恐れて😱いたとかなんですかね〜
「大本堂」の奥には「奥之院」があります😊
『奥之院は、宗吾様の菩提に感謝の誠とご供養を捧げると共に、永きに亘り当山を支えて頂いた御信徒・御檀家の皆様方の恩に報い菩提を弔うためのお堂として、宗吾霊350年祭記念事業において多くの皆様方のご寄進のもとに平成14年8月に建立されました。』
大きな案内板が💁♂️…
『奥之院
こちらは宗吾霊堂の奥之院です。
宗吾霊三五○年祭記念事業で平成十四年十月に建立しました。
御本尊様は大佛師、松本明慶氏作「十一面観世音菩薩」です。
宗吾様のご供養と感謝の誠を捧げると共に永きに亘って当山を支えて頂きました御篤信・御檀家の皆様方の菩薩を弔う為、謹彫致しました。
世に「佛縁」という言葉があります。
私たち人間の一生はすべて佛の掌にあるわけですが、人と人との出会いもまた佛の深遠なる心のなせるところということかもしれません。
宗吾様との出会いもまた佛縁の至らしめる事と考えます。
人々を愛する人がいるかぎり平和な世の中が続くに違いありません、それが宗吾様の願いです。
つきましては、皆様方の心の中に生き続けているご先祖様・亡くなられましたご家族の霊を宗吾様といっしょに弔うべくご供養いたしておりますので、どうか檀信徒の皆様におかれましても「お位牌」をお作り下さいましてご供養をお受けになられますようお願い申し上げます。
「永代御供養」の申し込みを総合受付におきまして受け付けております。
合掌』
最後の言葉は、ちょっと営業モードに入っていますよね〜😆😆😆
こちらは、宗吾霊堂の住職だった「照心大僧正頌徳碑」です😊
京都の智積院および和歌 山の高野山で修行した後、こちらの住職になった方のようです。
「大本堂」左手奥に「弘法大師像」がありました。
坐像ですね😄
目を引く建築物ばかりなので、弘法大師が目立ちません😅💦💦💦
あれっ〜🤔
鐘楼が無いなぁ〜と思っていたら…
「仁王門」の右手にある池の奥にありました😆
木々の間の小道を抜けると「鐘楼堂」があります。
『昭和27年宗吾霊300年祭記念事業として建立されました。梵鐘は仁王像を製作した香取正彦氏とその親の秀真氏との共作です。
鐘をつく時間
朝 夏5時30分・冬6時:6回 昼12時:12回 夕方17時:6回』
最後は「宗吾様御霊廟」の横に建立されている「身代わり地蔵尊」です。
かの福沢諭吉が「学問のすすめ」の中で…
『人民の権義を主張し正理を唱えて政府に迫り、
その命を棄てて終わりをよくし、
世界中に対して恥ずることなかるべき者は、
古来ただ一名の佐倉惣五郎あるのみ。』と説いていますが、福沢諭吉にまでも影響を与えた人物だったんですね😊
イエスキリストもそうですが、やっぱり民衆のために自らの命をささげるというシチュエーションは、後世まで人々の心に残るんですね〜
とにかく🥵💦暑くて境内を出て、駐車場に直行しました💨
まずはエアコン全開🌪にして涼まないとヤバい。
というわけで、クルマの🤳撮っている場合じゃなかった😅💦💦💦