718 ケイマンのポルシェ・洲崎神社⛩・館山市・NO WAR🙅♂️に関するカスタム事例
2022年06月24日 05時32分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
いつも素通りしていた洲崎神社(すのさきじんじゃ)⛩に立ち寄ってみました😊
神社仏閣シリーズ⛩第59弾ですね❗️
洲崎神社の駐車場🅿️は左手にあります。
チラッとクルマの側面が映っています。
もちろん停めるスペースはあったのですが…
あえて、この軽自動車用のスペースにリヤタイヤ🛞を未舗装部分まで下げて迷惑の掛からないように停めました😊
何で⁉️🤔
だって、この方が見た感じが良いじゃないですかぁ〜
それともう一つ理由があるんです。
手水舎も立派ですね。
それもそのはず…
こちらは安房国一之宮ですからね〜😊
あれっ⁉️🤔
と思った、そこのあなた🫵
凄いですね〜
私が今年のお正月🎍に投稿した安房神社⛩も安房国一之宮です。
一般的には「一之宮」は1つの国に1つというのが原則ですが、館山には安房神社⛩と洲崎神社⛩の2つ存在するんですね。
こちらは神社ですから仁王像がある仁王門ではありません。
神門ですね。
「随身門」というようです。
いろいろな神社を巡っていますが、こういった朱塗りの門がある神社は珍しいと思います😃
さてさて〜
では館山には何故「一之宮」が2つあるのかなんですが…
ググると、洲崎神社はリベンジの神様なんだ❗️とありました。
ちょっと引用してみます💁♂️…
『2つの一之宮が存在することになった経緯は、なんと源頼朝のドラマが関わっています。
ご存知、天下統一を果たし鎌倉幕府を開いた源頼朝ですが、実は1180年伊豆で挙兵した際、石橋山の合戦で敗れ海路で安房の地へ避難していたのです。家臣数名に支えられて辛くも逃げ延びた安房の地で、頼朝は「もう一度チャンスを!」と再挙を期して参拝をしました。
この時頼朝が向かったのがこの洲崎神社です。
その後頼朝は、千葉常胤(ちばつねたね)などの協力を得て平家討伐を成功させ、見事願いを叶えることになるのですが、そのお礼に洲崎神社に「神田」の土地を奉っています。
つまり洲崎神社は、頼朝からすれば天下統一の願いを聞き入れてくれた神様となるわけです。
この話は、多くの武士の心に勇気をもたらし、語り継がれてきました。
中でも、江戸城を築きあげた太田道灌は洲崎神社を勧請して、城の鎮守(今の神田明神)にしたと『永享記』(室町以後の東国情勢を記した軍記)に記されています。
戦国時代、安房の覇者「里見氏」もこの神社を尊崇しました。
後世の武士は、全国統一を果たした頼朝の偉業は決して平易な道のりではなかったこと、洲崎神社で源氏再興を願う頼朝の参詣の内に、ひときわ神懸かったストーリーを感じたのかもしれません。
ともあれ、このような経緯のもと、自然発生的に洲崎神社を「一之宮」と呼ぶ風習が広まり、また江戸時代には松平定信が、「安房国一之宮大明神」と自筆した篇額を奉納したこともあり、本来は国に1つとされる一宮が、安房国館山には2つも存在することとなったのです。』
ということで、何かに行き詰まった時や新しいことにチャレンジする時には〜
こちらに参拝すると良いと書かれていました😊
随身門の左右には、随神様が安置されています😊
随身とは、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことを指します。
神道においては、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神様といわれるようです😊
こちらの像は、矢大神と左大神と言われており…
明治三年の作とのことです。
こちらは厄祓坂(やくばらいざか)と呼ばれる石段ですね😆
めっちゃキツかったぁ〜
数えながら登ったら、148段もありましたぁ💦💦
石段が急なんですよ💦💦💦
マスク😷してたら息が荒くなってきたので…
顎までマスクを下げて、ハァハァ言いながら(変なハァハァじゃないですからね🤣)なんとか登り切りました😅
この石段を敬虔な心で登り、参拝することで厄落としが出来るとされています。
はい、こちらが拝殿ですね〜
もうTシャツが汗💦💦💦でびっしょり…
たまたま、この日はMARTINI RACING PORSCHEのグレーのTシャツだったので💦で見た目が真っ黒になってしまいました😣
こちらの御祭神は天比理刀咩命(あまごひりのめのみこと)と言われる女神様です😊
洲ノ神(すさきのかみ)という別名もあり、天太玉命(ふとだまのみこと)の妻とも言われています。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に心を痛めて天岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみのかみ)を引き出すため、岩戸の前で踊りを踊った女神が天比理刀咩命です。
そのため、洲崎神社は芸道のほか、結婚や恋愛、安産などにご利益があると言われています❗️
扁額の「安房国一宮洲崎大明神」は文化九年(1812)に松平定信公によって奉納されました。
運良く…
拝殿が開かれており、御神鏡🪞が拝めました😊
おおっ〜神々しい✨✨
こちらは本殿ですね😊
本殿は三間社流れ造というもので、三方に木口縁をめぐらしであるそうです。
銅板葺・千木勝男木を置き、唐様三手先組で外部は 丹塗仕上げ、木鼻欄間等に彫刻が施されています。
装飾が多く、江戸中期の神社建築の特徴をもつ貴重な建物でしたが、昭和六十一年に台風で土砂が流出 し、本殿が倒壊したため修復が行われたのだとか。
こちらは、拝殿の右手にある長宮です😊
坂道になっており、下が土なのと水が滲み出ているため滑りやすいので注意が必要です。
というか…
148段を登って来た後なので、膝がガクガクしてるから余計に気をつけないといけません😅💦
長宮には…
豊玉彦命(とよたまひこのみこと)海の神
大山津見命(おおやまつみのみこと)山の神
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)厄除・開発の神
大物主命(おおものぬしのみこと)農工商・医薬の神
が祀られています😊
長宮の奥には金毘羅神社があります😊
御祭神は、金比羅大神で…
漁業、航海、医薬の神です❗️
こちらにも境内社があります。
稲荷神社です😊
御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で商売繁盛、五穀豊穣の神様ですね❗️
急な石段から〜
向こうに海が見えますね👍✨
これを降りるなきゃ戻れないことを考えると…
トホホです😓
iPhoneを望遠にすると🤳…
なんか、⛩のところにカッコいいクルマが見えませんかぁ〜😆✨
もう少しだけ寄ってみると〜
あれ⁉️
あんなところに自分のクルマが見える🤭🤭🤭
そうなんです、あそこに停めれば石段の上から見えるだろうなぁ〜と思って軽自動車用のところに停めたんです😆👍
こちらの石碑は文字が細かくて、さすがに読むのは大変でした😅💦
ググッても出ていないし…
このように記されています💁♂️…
『式内大社 洲崎神社
祭神 天比理乃咩命
当社は延喜式神名帳に「后神天比理乃咩命神社 大 元名洲神」と記され、天太玉命の后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称した。
由緒 当社は宝暦三年(一七五三)の「洲崎大明神由緒旧記」によると神武天皇の御宇、天富命が御祖母神天比理乃咩命の奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に祀られたことに始まる。
鎌倉時代の治承四年(一一八○)安房に逃れた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。
室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えている。
房総里見氏も当社を尊崇して、七代義弘が神領五石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下した。
幕末の文化九年(一八一二)房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房邦彦一宮洲崎大明神」の扁額を奉納している。
神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元冦戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、明治六年(一八七三)県社に列せられた。
往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を教えた。
洲崎明神は古来伝承されている数々のあらたかな霊験から、安産・航海安全・豊漁・五穀豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいる。
祭事 祭礼は二月の初午と八月二十日、二十一日の例大祭があり、共に文化庁選択記録保存・県指定無形民族文化剤の洲崎踊り(鹿島踊りと弥勒踊り)が奉納される。
八月の例大祭には勇壮な神輿の渡御や浜祈祷も行われる。
文化財その他 社宝である養老元年(七一七)万治二年(一六五九)宝暦三年の各縁起や御神休髪などのほか、江戸時代延宝年間の改築とされる神社本殿は、共に市指定有形文化財であり、神社の鎮座する御手洗山は洲崎神社自然林として県指定天然記念物となっている。
また随身門は宝永年間の造営、矢大神・左大神像は明治三年の作とされている。』
長過ぎるでしょ、この石碑の文章…
打つの大変でした😅💦💦💦
館山の街中から🚗走って💨くると…
左カーブで突然見えてくるので、通り過ぎないように😆
こちらの社標は古い感じですね😊
「一宮洲崎大明神」と彫られています。
文政3年(1820年)に吉祥院の別当賢秀が設置したとされています。
こちらは新しい社標ですね😊
こちらには「安房之国一宮 洲崎神社」と彫られていますね。
最後に社標の後ろにあった案内板💁♂️を…
『館山市有形文化財(建造物) 洲崎神社本殿
屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流れ造りで、柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。
軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは、珍しい点といえます。
社伝では延宝年間(1673〜81)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、支輪や虹梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、その後に大規模な修理が加えられていることがわかります。
しかし本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。
とくに背面の竹に虎を配した彫物のある本蟇股は、江戸時代初期の寛永年間(1624〜44)頃の様式に従っているもので、延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています。』
是非、安房神社⛩とこちらをセットで訪れてみてください😊