RX-7の関ヶ原史跡巡り・その2!に関するカスタム事例
2024年03月26日 07時33分
もう落ち着いたかな😌
✨関ヶ原の戦い 史跡巡り✨ その2
この日はちょっと遅めの出発だったので、さほど遠くない関ヶ原歴史散策に出掛けることにしました😌
「どうする家康」が終わってから3ヶ月経ってるので、そろそろ人出も減った頃合いだと思うしね🙌
それでは行ってみよう🤗
関ヶ原古戦場記念館にFCを停める前に、前回行き漏れてしまったこちらから🙌
【田中吉政陣跡】
田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突しました。また、石田隊の右翼・蒲生郷舎と戦ったのではないかという説もあります。
〜吉政の大手柄!?〜
田中吉政は東軍武将ではありますが、石田三成とは親交があったそうです。関ケ原の戦いで敗走した三成を捕らえたのは、皮肉にも、この田中吉政。しかし吉政は昔の関係を重んじて、捕らえた三成のことを厚遇したそうです。そして三成も、「自分を捕らえたのが吉政でよかった」といった言葉を残したとされています。
この後古戦場記念館🅿️にFCを停め、まずは併設するレストラン伊吹庵さんでランチ🎶
こちらメニュー🙌
ネーミングが面白〜〜ぃ!🤣
私達、厨房のすぐ側に座ったんだけど、スタッフさんのオーダーの通し方が面白くて〜
足軽一丁〜 村人一丁〜
(足軽カレー) (村人カレー)
って🤭笑ってしまった🤭
小早川の寝返り 裏切りカルボナーラ(旦那)
出陣セット(私)
カルボナーラはちゃんと「裏切り」に掛かってて、岡崎八丁味噌パウダーが隠し味で振りかけてありました😉
お味は...まぁまぁかな☺️
ついでに抹茶パフェも🍦
旗がいいよねぇ✨
さ、古戦場記念館に行きましょう🤗
前回来た時は激混みだったのでこの記念館一推しのシアターを諦めましたが、今回は激空きで、なんと2組で上映してもらいました😉👍
めちゃラッキー✨
そしてこれからもちょくちょくここに来そうなので〜年パス買ってしまいました〜😉👍
大迫力の2種類のシアターを見てから常設展示をゆっくりじっくり自分のペースで観覧😌やっぱりミュージアムはこうでなくっちゃ!
展示物はもちろん撮影禁止なので、体験コーナーの雰囲気だけ
↓↓↓
刀✨
やっぱり重いです!
槍と火縄銃✨
槍はめっちゃ長くてびっくり‼️
火縄銃はめっちゃ重くて、私はとても持ち上げられなかったです💦
軍配と采配✨
説明は写真を拡大してね😅
「軍配が上がる」「采配を振る」
の語源はコレらですよ🙌
馬印と旗印✨
説明は写真を拡大してね😅
合戦の絵図とか屏風絵とかでよく見るお印、いろんな種類があって、様々な印があって、誰のお印かを調べるのもお勉強になりますね🎶
5Fの展望室からの眺め✨
岡山烽火場、黒田・竹中陣跡がすぐそこに望めます👍(赤矢印)
(向かいの建物を撮った写真じゃないよ😅)
真っ白くん、ど〜〜こだ?
さ、ここからは史跡を回りますよ🙌
まずは古戦場記念館近くのなので徒歩で。
【細川忠興陣跡】
父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、利休七哲の一人にも名を連ねています。家康が会津征伐のため大坂を留守にした際に三成が妻子らを人質に取ろうとした際、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶ちました。さらに父が守る田辺城は西軍によって包囲されてしまい、三成への増悪の念は深まったとされています。戦いの当日は約5千の兵を率い、岡山烽火場の麓、相川の南付近に布陣し、黒田・竹中隊とともに、笹尾山の石田隊を攻め、壊滅させました。「越中頭形兜」を被っていたとされ、その姿は関ケ原合戦図屏風に描かれています。
細川隊は首級130余を挙げたと言われています。
妻ガラシャと共に、キリシタン大名としても有名ですね😌
真っ白くん、ただいま〜☺️
さ、次の史跡に行きましょ🚗💨
到着🙌
まずは素敵な竹林を登っていきます😉
【岡山烽火場】【黒田・竹中陣跡】
豊臣恩顧の武将であった竹中重門は、最初は西軍に属していましたが、岐阜城落城後、黒田長政の勧めにより東軍につきました。合戦時には、長政とともにここへ陣取り、戦機を見て烽火(のろし)を上げました。山頂からは、周辺の状況が把握しやすいこともあり、開戦の烽火を上げるには好適地だったことがわかります。
〜黒田と竹中の不思議な関係〜
黒田長政と竹中重門の関係といえば、少年時代の約1年間、隣村で共に過ごした旧知の間柄であったそうです。しかも、秀吉が恐れた男・黒田官兵衛と頼りにしていた男・竹中半兵衛の両息子が、ともにここ岡山で奇しくも陣を敷いたのでした。長政は、文禄・慶長の役で武功をたてていましたが、過小評価の報告をされたことで、石田三成とは朝鮮在陣以来、不仲だったようです。合戦では小早川を東軍に振り向かせ、東軍勝利に貢献したキーパーソンでした。
この場所からは、南宮山(吉川陣)・松尾山(小早川陣)・笹尾山(三成陣)・中山道・北国街道・伊勢街道…といった、合戦時の両陣営重要なポイントがバッチリ見えて、さすがジモッチ竹中重門が選んだ場所だと感じます😌
因みに赤矢印がさっきまで居た古戦場記念館です🤗
真っ白くん越しの、岡山烽火場🙌
(Top画もこの場所での一枚!)
さ、お次の史跡に参りましょう🚗💨
今回の散策の大目玉、大谷吉継陣😌
〜壮絶なる「男の美学」〜
大谷吉継は、親友の石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀な戦いであることを説き続けました。しかし、いざ決戦の舞台に立つと、三成の“義”を貫こうとする決意は固く、病身でありながらも死に装束で合戦に参加します。
関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していわれる中、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様は、まさに男の美学といえるでしょう。
【大谷吉継陣跡】
大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に「若宮八幡宮」上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は、空堀を左右に巡らせ、山中城と呼ばれるほどの要害の地でした。合戦後、徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。
戦術に長け、また官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたというのも驚きです。
【大谷吉継、湯淺五助の墓】
“義”を貫いた友情の武将・大谷吉継の墓所。
吉継は藤堂・京極隊や裏切った小早川隊などと激戦を繰り広げましたが、次々と味方の武将も討ち死にし、もはやこれまでと自刃しました。吉継の首は、五助の手によりその地に埋め隠されました。五助はその後討ち入りますが、藤堂仁右衛門に捕らわれました。その時、五助は主人の首の在処を藤堂に正直に伝えて供養を頼んだ上で討たれました。敵ながらに感心した藤堂は、家康からの詰問にも決して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り「大谷吉継の墓」をこの地に建てたとされています。
ここは大谷陣から60mほど離れ、小早川陣のある松尾山をバッチリ望める松尾山眺望地。
赤矢印が小早川秀吉陣🙌
ホントばっちり見張れる場所ですよね!
それにしても、高い所にある陣です...💦
今回の史跡巡りはここまで😌
まだ松尾山の小早川陣に行けてないので、いつか行ってみたいですが...
麓から陣跡までなんと徒歩40分😱💦
いけるかなぁ...😅
ま、古戦場記念館の年パスもあるし、時間ある時にまた来ましょう☺️
帰りにずっと気になってたこちらのお店へ
苺福さん🍓
いちご農家の方がやられてるお店で、手作りいちごジャムがたっぷり乗ったプリンが有名です✨時間が遅く、3個しか残ってませんでした😅
美味しかったです👍