シビックタイプRユーロの3.11に関するカスタム事例
2019年03月11日 14時40分
某防波堤から…。
8年前のあの日を思い出します。
自分は総合病院に勤めていました。
地震発生直後に、父親の実家が東北某県にあり、地理に詳しいという理由で、災害派遣医療チームの一員に選ばれました。
同日深夜に現地内陸部に到着。某県対策本部にて情報収集すると行方不明者23万人以上。沿岸部は壊滅し連絡取れず。
沿岸部に行かなければ状況が分からないため、今から沿岸部に行く自衛隊に同行させてもらい、沿岸部に。
自衛隊より安全が確保されていない山道。余震で土砂崩れが発生し、巻き込まれる可能性がある。それでも行きますか?と言われたのを覚えています。
3月12日、早朝に沿岸部に到達。そこから2週間、先遣隊として活動しました。
自分は医師でも看護師でもない職種のため、主に情報収集と現地の自衛隊 警察 消防 行政機関との連絡 調整が仕事でした。
3月某日、ある避難所の人たちと意見交換した帰り、電線に引っかかっていた遺体の前で泣いている中学生くらいの女の子と出会いました。
こちらに気づいた女の子が母親をおろすのを手伝ってほしいと…。
偶々通りかかった人たちと協力して、なんとかおろしました。
女の子に話を聞くと家は自営業 祖父母 父親 弟 家族全員が行方不明。
家族を探して彷徨い歩いていたら母親を見つけたと。
3月某日、別の避難所の帰り、ぺちゃんこに潰れた車の近くを通りかかった時 呻き声が聞こえたため中を覗くと 4人の遺体?が折り重なっていました。
ただ、1人だけピクピク動いていて…あっ と思い近くにいた自衛隊と避難所の人たちに声を掛けて
人力で車からその人を救出。
自衛隊のヘリコプターで内陸部の病院に搬送されていきました。
後々にその人から話を聞くと
避難している時に 偶然車で通りかかった見ず知らずの人が、止まって車に乗せてくれて一緒に避難したが、津波にのまれてしまった。
止まらなければあの人たちは助かった。私だけ生き残ってしまい申し訳ないと。
3月某日、被災した病院周辺にて、大津波警報発令。病院だった建物に向かい走り出す人、その場に座り込む人、放心状態の人…。
自衛隊や警察 消防 被災した人たちが避難しない人たちに声を掛けるが「ここで死なせて下さい」と答える人も…。
しばらくして、誤報とわかり…自分も含めて座り込む人が多かった。
先遣隊として2週間…。色々な事がありました。
その後、更に3年間、被災地支援に関わりました。
あの時からまだ8年しか経っていないのか。
もうすぐ3月11日 14時46分ですね。