718 ケイマンのポルシェ・真言宗智山派 慈士山 広済寺・横芝光町・NO WAR🙅♂️に関するカスタム事例
2022年10月18日 06時16分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
朝晩が寒くなってきましたね😃
布団から出るのが億劫になっています。
さて、神社仏閣⛩シリーズ第88弾です❗️
横芝光町にある「新義真言宗智山派 慈士山 広済寺」です😊
田舎の何処にでもあるお寺さんですね❗️
まずは仁王門からです😊
小さなお寺さんにしては立派な仁王門ですよね。
扁額には「慈士山」と刻まれています😊
ココへ入ってくる時にちょっと迷った💦💦
民家の中に入っていくみたいなので、一本前を左折しちゃいました。
こちらは阿形像ですね😃
金網越しなので分かりづらいから回ってみましょう。
完全な失敗作ですね😅💦💦💦
ピンぼけでしたぁ〜
阿形像さまが恐い顔して怒っていますね😤💢
あっ、こういう顔なんだっけ😆
そしてこちらが吽形像です😊
こちらも回り込んで撮って🤳みます。
こちらはなかなか迫力ある形相を撮れましたぁ〜
お腹の部分の塗装が割れてきていますね。
前回の修復から38年が経過していますから、そろそろまた修復しないといけないでしょう😄
仁王門には案内板💁♂️があります。
『広済寺仁王尊
当山、仁王尊は、江戸時代、宝暦九年(一七五七)広済寺住職、長賢和尚発願により、京仏師、法橋徳宝により造立されました。(二百二十三年前)
当山仁王尊は、伝統的な京仏師の技法と、洗練された姿態が見られます。
素材は、桧の木の良材に恵まれなかったため杉材を使用しております。
一、造立 宝暦九年十月吉日
一、総丈 二米五○(天衣の先端迄)
一、胸囲 一米四○
一、修復 嘉永九年 明治九年 昭和五十七年
尚今般、宗祖弘法大師千百五十年御遠忌(昭和五十九年)記念事業として修復。
昭和五十七年七月吉日』とありました😄
こちらが本堂です😊
なんか殺風景な本堂なんて言ったら…
バチが当たりますかねぇ〜
Wikipediaをググると💁♂️…
『鎌倉時代の初期、薩摩の僧侶石屋和尚が諸国を遊行の途中虫生の里に立寄り、辻堂を仮の宿とした時、「妙西信女」という17歳の新霊が地獄の鬼どもに攻めたてられる様子を目の当たりにし、地獄絵さながらのすさまじさに驚いたという。
そして翌日娘の墓参に来た新霊の父母であるこの地の領主椎名安芸守夫婦にこの様子を話したところ、領主椎名安芸守は自分の悪行を悔い娘の菩提を弔うため寺を建立し、石屋和尚が開山することとなった。
建久7年(1196年)のこととされ、娘の法名「妙西」を「広西」と改め慈士山地蔵院広西(現在は済)寺と称したとのことである。
ところがその年の夏虫生の里に突然雷雨が起こり、開山した寺の庭に、青鬼・黒鬼・赤鬼・白鬼・祖老母の面などが天から降って来て、青鬼と白鬼の面は失われたものの、石屋和尚は残りの面を寺内に止め置いたとされる。
一方、当時鎌倉に住む、運慶・湛慶・安阿弥の3人の仏師が、ある夜「和尚と夫婦が辻堂に塔婆を立ててこもっていたところ、いろいろな鬼が出て来て、亡者を攻めたてているのを、菩薩がご覧になられている。」という同じ夢を見て、夢の舞台である虫生の里を尋ねることになった。
そして3人の仏師は虫生に至り、石屋和尚に逢って話を聞いて、閻魔大王、倶生神、老母、菩薩などの面を彫り献納したい旨を申し出、面が整ったという。
3人の仏師は自ら作った面を顔に当て、石屋和尚もまた面を当てすさまじい舞を舞って、集まった壇徒一同に披露した。
ちょうどその日はお盆の7月16日であった。
そしてその後も地獄の様、菩薩の救いを示す鬼来迎は毎年7月16日 (旧暦)に行われるようになったと言われている。』とありました。
こちらがその「鬼来迎」の保存庫みたいです😊
地獄の様相と菩薩の救いを仮面狂言にした日本唯一の民俗芸能で、1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けているようですね。
ちょっと斜めに撮れちゃいましたね😅💦💦
案内板💁♂️には…
『国指定重要無形民族文化財 鬼来迎
虫生の鬼来迎は毎年八月十六日、お盆の行事として境内で行われている仏教劇です。
大序・賽の河原・釜入れ・死出の山の四段が演じられ、仏教の教えである因果応報・勧善懲悪を説いた内容です。
また、かつては大序と賽の河原の間に、和尚道行・墓参・和尚物語の広済寺建立縁起譚が演じられ、合せて七段から構成されていました。
千葉県指定有形民族文化財 広済寺の鬼来迎面
鬼来迎上演の際に、かつて用いられていた面で、十三面あります。
最も古い鬼婆・黒鬼・赤鬼の三面は、鬼来迎が演じられ始めた中世に作られたと伝えられています。
残りの十面には、塩振り四面、倶生神一面、閻魔大王一面、鬼婆一面、赤鬼一面、黒鬼一面、観音菩薩一面があり、江戸時代に作られたと思われます。』とありました😆
田舎には娯楽がほとんど無かったでしょうから、こういった仏教劇も田舎の年寄りには人気があったのでしょうね〜😊
多分、私がもしこの劇を見たら…
飽きちゃって途中でそぉ〜と退席すると思います😅💦💦💦
仁王門からケイマンくんを覗いたアングルです😄
さて、こちらのご住職は若い方のようですね。
Twitterもやっていて…
お塔婆を書いている住職の前で猫🐱がお腹を丸出しにして寝ている💤写真。
「猫の手を借りたい時の猫とはこんなもんです」というツイートでバズったようです😆👍
出来ればお若い住職に会ってみたかったですが…
訪れた日はお留守のようでしたぁ😊