軽自動車好き(横乗り高3)さんが投稿したリクエスト企画・スバル360に関するカスタム事例
2023年02月06日 22時20分
無言フォロー失礼します早速ですが以前コペン好きまさとで投稿していました。撮影に使用するのは最近買ったiPhone7で投稿したいと思いますフォロー大歓迎です100%フォロー、フォロバ、コメント返信、毎日いいね、毎日投稿致します。 叔父が手打ちそば天作を経営しています。富士急ハイランド付近なので遊びに来られた際には是非お立ち寄り下さい
またまたリクエスト企画の超レア車企画2台目はスバルR1の先輩スバル360 4年前地元で綺麗な360走ってました。
スバル360は、富士重工業(現・SUBARU)が開発した軽自動車である。1958年から1970年までのべ12年間に亘り、約39万2,000台が生産された。
販売期間
1958年3月 – 1970年5月
設計統括
百瀬晋六
ボディ
乗車定員
4名
ボディタイプ
2ドアファストバックセダン
2ドアオープントップ
3ドア ライトバン
レイアウト
リアエンジン・後輪駆動
パワートレイン
エンジン
強制空冷2ストローク直列2気筒自然吸気356 cc
最高出力
16 ps @ 4,500 rpm
最大トルク
3.0 kgf•m @ 3,000 rpm
変速機
3速MT
サスペンション
前: トレーリングアーム
後: トレーリングアーム
車両寸法
ホイールベース
1,800 mm
全長
2,995 mm
全幅
1,295 mm
全高
1,335 mm
車両重量
385 kg
その他
生産台数
39万2016台[1]
類似車
フォルクスワーゲン・タイプ1
フィアット・500
系譜
先代
なし
後継
スバル・R-2[2]
観音開き最高
耐久試験と運輸省認定試験
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試作1号車は1957年4月20日に完成。合わせて5台製作されたが、それぞれ過酷な試験走行に供され、量産に向けての貴重なデータを集めた。
当時の試験走行は、伊勢崎から高崎までの未舗装道路を往復する1日あたり16時間・600kmの長距離連続走行テスト、そして伊勢崎から赤城山山頂付近までエンストなしで往復する登坂テストであった。
試作車のエンジンは酷使されてほぼ毎日故障したため、三鷹製作所から伊勢崎に派遣された技術者が徹夜で修理・調整し、翌朝には再び、試験走行が繰り返された。
当時未舗装であった赤城山登山道路の標高差1000m近い連続急勾配区間[注釈 10]は、当時の普通乗用車でもオーバーヒート覚悟の登山道であり、4名乗車してのスバルの試験中も、幾度となくエンジンの過熱に阻まれた。潤滑や材質変更、冷却対策を迫られたこれら問題も徐々に解決され、最終的に試作車が赤城山を全開・ノンストップで登坂可能となったのは、運輸省の認定試験を目前とした1958年2月4日であった[注釈 11]。
『マン・マシンの昭和伝説』によれば、この試作車にはプリンス自動車の中川良一やトヨタ自動車の長谷川龍雄といった競合他社の設計者も試乗している。1960年代後半以降は各社間の競争が激化し、また機密保持の点からも、他社エンジニアに開発中の試作車を触れさせるなどはあり得ないこととなったが、1950年代後半当時の日本では自動車メーカーの枠を超えた技術交流会があり、各社の開発陣が相互に試作車を乗り比べすることもあった[注釈 12]。長谷川は製造上の問題として外板の継ぎ目線を指摘していた。
運輸省の認定試験は、1958年2月24日から行われ、テストドライバーは富士重工業社員の福島時雄が担当した[24]。運輸省村山試験場での試験前には床下に付着した泥を丁寧に洗い落とした(福島によればこれだけでも2kgほどにもなったという)[24]。続いて運行試験が箱根、小田原等で行われた。小雪が混じるような寒い日であったにもかかわらず、負担となる重量を僅かでも減らすため、ドライバーの福島とナビゲーターの坂口彰はつなぎの作業着の下に薄い下着だけという非常な軽装で乗車した[25]。箱根の試験では、運輸省の職員2名が同乗しなければならなかったが、1人の職員はスバルがあまりに小さい車であることにおそれを抱いて乗車を拒み、代わりに1名分55kgの重りが乗せられたという[25]。認定試験では箱根越えの試験コースを予定以上の快速(箱根湯本から芦ノ湖まで国民車構想基準なら30分所要のところ22分[26])で登坂、軽量さに加えて福島のエコラン運転の努力なども功を奏してリッター24.5kmの燃費を記録するなど、好成績を収めた[25][27]。また運輸省村山試験場でのコーステストでは、(出力が物を言う絶対的最高速度を除いて)制動距離、振動特性など多くの項目で、同時代の国産小型車同等か、場合によってはこれを上回る優秀な特性を記録した[25]。
最終的に、発売時のスペックは空車重量385kg、エンジン出力16PS、最高速度83km/hとなり、目標よりやや重量を超過したものの、ほぼ計画した通りの性能を満たした。
発表
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スバル・360の市販開始に際し、1958年3月3日正午より東京都丸の内の富士重工業本社において公式プレス発表会が開かれた[28]。
プレス発表というイベントに慣れていなかった富士重工のスタッフは、実車無し、カタログのみで発表を済ませようとしていたが、斬新な新型車を期待して大挙参集した報道陣から「実車はどうした」と催促され、急遽2台のスバル360がトラックで伊勢崎から東京本社へ届けられることになった。夕方16時まで辛抱強く待った記者たちは、到着したスバルを代わる代わる運転し、その乗り心地と走行性能を体験することになった[28]。
反響は目覚ましいものであった。国内の自動車メーカー各社からも関心を持たれ、国内メディアのみならず、イギリスの老舗自動車雑誌「オートカー」が「これはアジアのフォルクスワーゲンとなるだろう」と好意的に評するなど、欧米の自動車雑誌にも取り上げられ、当初から強く注目される存在となった。販売1号車の顧客が松下幸之助であったことは有名である。
富士重工業はすでにラビットスクーターの代理店網こそ整備していたが、一般向けに4輪自動車を販売したことはなく、スバル発売に際してはそのディーラー網整備から始めなければならなかった。このため、販売店については既存のスクーター代理店、既存の四輪車ディーラー、商社などを利用して各都道府県に手配された。当初のディーラーは、東京地区では主として伊藤忠商事(1958年5月より販売)、また大阪地区では高木産業(1958年7月より販売)で、全国一斉販売開始ではなかった(販売網整備自体が難しい時代ゆえに、やむを得ないことではあった)。
一般向けのお披露目は1958年3月28日から30日にかけて、東京日本橋にあった白木屋デパート(現在は「COREDO日本橋」に再開発)で行われた
輸出仕様
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スバル・360はごくわずかであるが、左ハンドル仕様も生産され、当時米国統治下にあった沖縄にも輸出された。 輸出仕様においては、ハンドルの位置の他、軽量化のための透明アクリル板製のリアガラスが強化ガラス製になるなど、国内仕様とは細かい違いがある。
また米国本土ではラビットスクーターを輸入していた実業家、マルコム・ブリックリン (w:Malcolm Bricklin) らによって販売されたこともあった。しかし、非常に小型であったことや、折からラルフ・ネーダーによって指摘されていたシボレー・コルヴェア、フォルクスワーゲン・ビートルなどのリアエンジン車の安定性問題にも影響され、大きな実績を上げるには至らなかった。
輸出仕様は、排気量を拡大した「スバル・450」を改称した「スバル・マイア」であったが、「マイア」の名は後に3代目スバルレオーネの特別仕様車にも使われた。