フーガの飯豊天皇陵・不即位天皇・奈良県葛城市北花内に関するカスタム事例
2018年11月06日 13時29分
フーガに乗って6年半になりました(_ _) ええ年こいて未だに車いじり止めれません(^_^;) 匍匐前進で進化していきたいと思うので( ̄▽ ̄;) ヨロシクお願いします(_ _) 注)基本来るものは拒まず去るものは追わずですが(^_^;) 1度も投稿の無い人は受けませんので(>_<) (お礼のコメント入れられないので)(^_^;) 1度投稿してからフォロー頂けたら助かります(⌒0⌒)/~~ (お礼のコメント入れられるので)(^_^;)
おはようございます(⌒0⌒)/~~
今回は10月最後の日曜日に飯豊(いいとよ)天皇陵へ行って撮りました(⌒0⌒)/~~
早速斜めおちり(笑)(⌒0⌒)/~~
場所は奈良県葛城(かつらき)市北花内(きたはなうち)にあります(⌒0⌒)/~~
天皇陵はどこも緑が多く手入れが行き届きそして静かです(・・;)
飯豊天皇と書かれているのですが(・・;)?
歴代天皇で検索で調べたら歴代天皇に名前が無い( ̄▽ ̄;)🤔?🤔?🤔?
飯豊天皇で検索したらありました(⌒0⌒)/~~
飯豊天皇は第22代清寧(せいねい)天皇崩御後一時政を執ったとされたので、飯豊天皇と呼ばれはしているが、歴代天皇には記載されていません(・・;)
斜めおちり(笑)あっ~ぷ(笑)(⌒0⌒)/~~
文献的には飯豊天皇は、飯豊皇女または飯豊王女(読みは両方とも「いいとよのひめみこ」)と書かれる事が多いそうです(⌒0⌒)/~~
事責は、第22代清寧(せいねい)天皇と第23代顕宗(けんそう)天皇との間の期間、執政者だったと伝えられ、女帝の先駆的存在として注目された見たいです(⌒0⌒)/~~
(時代的には、神功皇后と推古女帝を繋ぐ位置にいた)
『日本書紀』によると、男性と経験を持ったのは生涯一度だけだそうです(・・;)
奥からパチリ(⌒0⌒)/~~
『日本書紀』によれば、執政期間は10ヶ月余りで、清寧天皇5年11月に薨去(こうきょ) 実際は『崩』と表記し、天皇扱いにしているそうです(⌒0⌒)/~~
ただし、前後の清寧・顕宗天皇など否定する立場からは、執政期間が数年に及ぶとの推測もあるそうです(・・;)
飯豊天皇の石碑です(⌒0⌒)/~~
年齢については、『水鏡(「みずかがみ」歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される)』に『御年四十五(45歳)』とあり、これに基づいて逆算すれば、允恭(いんぎょう)天皇29年の誕生となるが、どれだけ史実を反映しているかは、不明だそうです( ̄▽ ̄;)
天皇陵から、これもある意味ぽつ~んかな(^_^;)(笑)
女帝であったかなかったかですが、記紀では、天皇とは認められていないが、後世の史書である『扶桑略記(ふそうりゃくき)は平安時代の史撰歴史書』に「飯豊天皇廿四代女帝」、「本朝皇胤昭運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、天皇・皇后の系図」に「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記されてるそうです。(・・;)
また他に、『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)は、聖徳太子によって編纂(へんさん)されたと伝えられる教典』には清貞(せいてい)天皇の諡号(しごう)まであり、天皇の扱いになっている(⌒0⌒)/~~
明治時代から昭和20年までには、『歴代天皇には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る。』とし、現在も宮内庁では『履中(りちゅう)天皇々孫女 飯豊天皇』と称しています(⌒0⌒)/~~
これは不即位天皇としての扱いになるそうです(⌒0⌒)/~~
今回は10月最後の日曜日に奈良県葛城市北花内にある飯豊天皇陵をバックに撮りました(⌒0⌒)/~~