718 ケイマンのポルシェ・大多喜町・本多忠勝・大多喜城🏯に関するカスタム事例
2021年10月05日 05時32分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
いよいよ大多喜シリーズ最終回です😊
最後はやっぱり〜
大多喜城🏯ですかね。
いつものようにWikipediaで大多喜城🏯を見ると…
『大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。
天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。
以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。』
ココ大多喜城🏯は…
明治3年12月(1871年)に取り壊され、その後本丸も削平されました。
その後、昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定され、昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建され城内部には千葉県立中央博物館大多喜城分館が設置されました😊
なかなか良い感じで撮れました。
まだまだ古いiPhoneでも、この程度のショットが撮れるなら充分ですね😆
っていうか〜
スマホ📱は機種変する度に操作を覚えたり、今のiPhoneに保存しているものを移動したりするのが嫌なんですよ😅
歳とともに、そういうことが面倒になって…
この大多喜城🏯は、平成29年に続日本100名城に選定されています。
毎年10月には「大多喜お城まつり」が開催され、本多忠勝を始めとした武者行列や神輿が城下町を練り歩くそうです。
大多喜駅にあった案内所には、お城まつりのポスターやらチラシがありました😊
7回に渡り、大多喜の町並みを投稿してきましたが…
🏡からさほど遠くないところに、こんな素敵な町があったんですね〜
今まで大多喜の城下町というと、いすみ鉄道や小湊鐵道の駅巡りをする際の通過点だったのですが…
今回は大多喜の城下町を目的地として出掛けたので、いろいろと見て、町の雰囲気に触れることが出来ました😊