718 ケイマンのポルシェ・曾呂尋常小学校分教場跡・鴨川市・NO WAR 🙅♂️に関するカスタム事例
2022年03月11日 05時21分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
廃校をバックに718ケイマンと…
こちらは鴨川市にある「曾呂尋常小学校分教場跡」になります😵
この前、投稿した廃墟団地よりかは怖くないでしょ😆
だいぶ朽ちていますね〜
こういったところは、天気の良い日の明るいうちに来ないと怖いですからね😅💦💦💦
曾呂尋常小学校分教場跡をググッてみると💁♂️…
『1874(明治7)年に西尋常小学校として開校。1909(明治42)年、上尋常小学校、宮尋常小学校、西尋常小学校を統合し、曾呂小学校となり、西尋常小学校は分教場となる。
1967(昭和48)年廃校。
道路から下っていくと、二つの建物が並んでおり、奥のピンク色がかった比較的新しい建物は集会場として利用されている。』とありました。
こちらがそのピンクの建物ですが、比較的新しいといってもこの状態ですからね😅
廃病院🏥や廃ホテル🏨のようなところは怖くて絶対に行けません😱😱😱😱😱
立入禁止🚧とかにもなっているし…
でも、ココは廃校だし立入禁止🚧にもなっていないフツーに入れるところなんですよ😊
黒板がまだ充分使えそうですね〜
左端の壁に賞状が飾られています。
よく見ると…
平成に入ってからの賞状でした🤔
コレもおかしいと思い、ググッてみたところ〜
廃校になった後に、この辺りの集落の集会などに使われていた時に飾られたようですね。
こちらのショットの方が賞状は分かりやすいですかね〜
随分と劣化しており、床板も朽ちて底が抜けると危ないので…
中には入らないようにしました🙁
なにせ1874年築ですから。
天井も朽ちて落ちてきそうな感じがしますね〜
大型台風🌀が来たら、倒壊しそうですよね🤔
写真の真ん中あたりに木製の椅子が壊れて一つだけ残っているのが、少しだけ不気味😱😱😱
床板が所々濡れているのは、雨漏りですかね〜
こんなところで底が抜けて足が挟まっても誰も助けに来てくれないでしょう😱
廃校というと…
もっと怖いイメージがありましたが、ココはそうでもありませんでしたね〜
まぁ、廃墟マニアからすれば絶対に物足りないんじゃないかなぁ〜と思います😆
私のようなビビり症からすれば、このくらいで充分満足ですが😅💦
観光地でもないし…
多分ほとんど人も来ないところですから〜
見学するのに気を取られていて、もし後ろに誰か立っていたりしたら😱😱😱
この状態でずっと残るわけはないので、ココを見学できるのもあとどのくらいなのでしょうか…
興味がある人は早めに見学に行かれた方がいいと思いますよ〜🤗
城西大学の創立者で大蔵大臣も務めた故・水田三喜男氏の出身校ということで…
道路沿いには、こんな看板を城西大学が設置しています。
だったら、もっと保存状態をよくすればいいのにと思ってしまいます😄
こちらは敷地内に入って左手に建てられた記念碑ですね😊
小さな文字で、故・水田三喜男氏のことが刻まれていました💁♂️…
『曽呂尋常小学校分教場 記念碑
村の中央までは程遠いので、低学年の児童は本校に通うことができず、四年生までは分教場で授業を受けることになっていた。
一年から四年までの四十人に満たない児童が一つの教室で一人の先生に教わったのだから、なつかしい想い出は多い。
(水田三喜男自伝『蕗のとう』より)
水田三喜男がこの分教場に通ったのは、明治末から大正初めにかけてである。
本校(曽呂尋常小学校)までは六キロもあるので、周辺の子どもたちはこの分教場へ通学したのであった。
この分教場は、一八七四年(明治七年)、全国的に見てもきわめて早い時期に、この地域で開校した四つの小学校の一つで、一九六七年(昭和四十二年)の廃校まで、九十年の長きにわたって郷土の多くの人々を育んだ。
水田三喜男の父信太郎は、一九〇九年(明治四十二年)曽呂村の村長として、三つの小学校(上尋常小学校、宮尋常小学校、西尋常小学校)を曽呂尋常小学校に一本化することに尽力し、県下の各町村に先がけて近代的校舎を建設、人々の信頼を得た。
この時、本校は上に、分教場は西に置かれた。
曽呂の地が生み、終世この地を愛してやまなかった水田三喜男(1905年~1967年)は、昭和四十二年(1946年)戦後初の総選挙に自由党から立候補して初当選、以来三十年間、連続当選十三回、戦後日本の復興に心血を注いだ。
七度にわたる大蔵大臣として、国民生活の安定と日本経済の高度成長のために働く一方、義務教育費の国庫負担、私学助成など、日本の教育の再生、振興に力を尽くした。
一九六五年(昭和四十年)、国と社会に有益な人材育成のため、学校法人城西大学を設立、政治家としての責務を果たす傍ら「学問による人間形成」を建学の理念として、大学の初代理事長および学長の任に当たった。
1967年(昭和五十一年)、七十一歳の若さで急逝した。
この地に生まれ、この分教場で学んで大きく成長した人間水田三喜男の遺徳を偲び、郷土の人々との変わることのない心の交流を祈念して、この碑を建立する。
二〇〇八年(平成二十年)一月
学校法人城西大学理事長
城西国際大学学長 水田宗子
学校法人城西大学は一九六五年(昭和四十年)埼玉県坂戸市に城西大学の創立に続き、新たに一九九二年(平成四年)千葉県東金市に城西国際大学を創立した。
二○○六年(平成十八年)には鴨川市に同大学観光学部を開設し、創立者の故地にその教育への志と夢と情熱とを根づかせようと努めている。
この碑と分教場の近くにあり、二○○五年に復元された水田三喜男生家は国の文化財に登録され、多くの見学者が訪れている。』
最後に廃校をバックにもう一枚パチリ🤳
何か変なモノ映っていませんよね〜😂