MR2のAW11・AW開発話・グループB・WRC・セリカ ホモロゲに関するカスタム事例
2022年07月26日 20時35分
全国11億人のMR2ファンの皆様、こんばんは😃
MR2開発話続きでーす👍
日本車勢も、グループB制覇の為のマシン開発に躍起となる。サファリの覇者・日産240RS、唯一無二のロータリー・マツダRX-7、そして雪の女王と呼ばれたファミリア。だが、市販車ベースとは、もはや名ばかりのグループBにおいて。そしてWRCの歴史そのものにおいて、日本自動車メーカー達は、未だにマニュファクチャラーズ・チャンピオンを獲得すること適わなかった。
そんな中、トヨタは、熾烈化するグループB制覇において、2段構えの戦略に出る。まず、フェイズ1として、A60型セリカをベースとした『セリカ・ツインカムターボ』と投入。そして、フェイズ2として、日本初のミッドシップ車であるAW型MR2をベースとし、ミッドシップレイアウトに4WD機構を兼ね備えた、モンスターマシンの建造が計画されたのである。そのフェイズ2のマシンこそ、後の『222D』である。
フェイズ1の『セリカ・ツインカムターボ』とは、市販のFR車であるセリカに、わずか0.5mmのボアアップを施し、リアサスペンションを独立を4リンクリジッド化。フロントフェンダーを樹脂化しただけのマシンであった。
それでもトヨタ社内における反発は酷く、ホモロゲーション用に、上記程度の改造を施しただけのマシンを200台生産しようとするだけで、社内中から迷惑がられたと言う。グループBセリカの指揮を執っていた技術者などは、セリカ計画を推進した為にエンジニアの道を断たれ、子会社に出向する羽目にもなってしまった。
しかしながらも、セリカ・ツインカムターボは、ビョルン=ワルデガルドのドライブによって1984年のサファリラリーにて優勝。1985年のサファリラリーでは、ユハ=カンクネンのドライブによって。1986年は再びワルデガルドによって、3年連続サファリラリー優勝を果たす。
だが、当時のセリカは2WDのFR……グループBを跋扈するモンスターマシンたちに対抗するには、実力不足は否定できず、セリカに代わるラリーカーの開発は急務であった。
トヨタがグループBの決戦兵器のベース車両として選定したのが、発売を間近に控えたMR2であった。計画が立案されたのは1982年、そして翌1983年には、既に開発が承認されていたのである。
ある日、初代MR2の駆動系を担当したエンジニア・都築功に指令が下される。それはMR2をベースとしたラリーカーの開発であった。
都築は愛知県刈谷市出身、名古屋大学大学院修士課程修了、専門は空力学。トヨタでは、トランスミッションの設計部に所属。初代セリカ開発時、後に日本初ガルウィング=セラの開発主査となる金子幹雄と共に、日本の量産市販車として初となる5速マニュアルトランスミッションを設計する。そんな都築は、まだ課長の立場でありながらも役員直轄でラリーカーの4WDターボ仕様MR2の開発責任者に任ぜられる。
元々はFF車であったAE82型カローラをベースとして製作されたAW型MR2。それに、次世代のエンジンとして開発されていた2リッター・DOHCターボエンジン『3S-GT』をミッドシップレイアウトに搭載し、同時期に開発中であったトヨタ初となるフルタイム4WDシステムを組み合わせたマシン。それが、222Dの構想であったと。
車輛の開発は日本のトヨタ開発企画室を中心に、エンジンはTRD、駆動系はアイシン製機、ボディはセントラル自動車とTRD。車輛試作はTRD。そしてテストはTTE(トヨタ・チームヨーロッパ)が担当することとなった。
そして1984年。WRC車輛開発に対するトヨタ社内の凄まじい逆風を受けながらも、ついに『222D』の開発はスタートした。
まだまだ、しぶとく、続く〜😁