RX-7のぼっちFD・関ヶ原史跡巡り・その3!に関するカスタム事例
2024年04月12日 07時27分
いいお天気だなぁ〜😌
✨そうだ!ぼっちFD行こ✨ 編
行けそうでなかなか行けないぼっちFD!
調べたらかれこれ1年振りぐらいだった😅
せっかく年パス買ったし、関ヶ原行こう🚗💨
関ヶ原巡り その3👍
やっぱりまずはここから!
関ヶ原古戦場記念館🙌
年パスなのでチケット購入なしで入館🎶
シアターもバッチリ見て〜
関ヶ原合戦を描いた有名なこの屏風✨
知ってますか?(広い画像のため画質粗い💦)
関ヶ原合戦の全容を描いた屏風で、東西各陣営の姿が旗印によって描き分けられます。
今回は展示室内で上映されてるこの屏風の解説動画(全9話)を全制覇するのが一番の目的🙌
で、ばっちりミッションクリア👍
一人だと時間を気にせずゆっくり見れて良し!
合戦の進捗解説と共に誰が何処に描かれていて、その役目や働き、伝承の逸話など、屏風に描かれた絵を動かす演出で構成されており、とても分かり易く、合戦の理解が一段と深まりました☺️
展示室前の廊下の壁に描かれている両軍陣営の家紋と旗印と馬印✨
この壁画、見やすく綺麗でいつも見入ってしまう😌
誰のお印か、だいぶ見て分かるようになりました👍
因みに全ての旗印が先程の屏風に描かれています😉
満足まんぞく〜😉👍
っという事で、今回は他はサラッとね🎶
年パスあるのでまた次回もテーマを決めて観覧しよ☺️
ここからは関ヶ原を真っ黒ちゃんで回るわよ🚗💨
まずは記念館からすぐのこの場所から〜
↓↓↓
決戦地🙌
左隅にちっちゃく、石田三成陣!(赤矢印)
(史跡巡り1弾で紹介済なので解説省略)
石田三成陣🙌(陣跡は丘の上😅)
(史跡巡り1弾で紹介済なので解説省略)
島左近陣🙌(三成陣の麓)
(史跡巡り1弾で紹介済なので解説省略)
【島津義弘陣跡】
島津隊は三成陣の側面に当たるこの場所に陣を敷いた。開戦後は自ら撃って出る事はなく、自陣に近づく者は東軍西軍問わず討ち払う姿勢をとった。
三成家臣が東軍への攻撃を要請したが取り合わず、戦いを傍観。また石田三成が自ら島津豊久陣へ攻撃参加の督促に来たが、
『今日の義は面々切に手柄次第に相動くべく候』
(本日の合戦は各々が好き勝手に手柄を立てられるように戦いたい)
として取り合わなかった。
西軍が総崩れになった頃、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊はおよそ300。敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功しました。世に名高い『島津の退き口(のきぐち)』です。
東軍の激しい追撃を食い止めるため、島津隊の島津豊久や長寿院盛淳らは苛烈な『捨て奸(すてがまり)』で応戦しました。
結局故郷に生還できたのは50人程だったそう。
〜捨て奸(すてかまり)〜
退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めし、本隊を逃がす壮絶な戦法。
〜薩摩隼人の心意気〜
西軍がことごとく敗走する中、義弘は『西軍に島津あり』の勇姿を東軍に見せつける為、敢えて敵中突破の『背進』を決断した。
開戦地🙌
【東軍】井伊隊、福島隊と
【西軍】宇喜田隊 がここで衝突!
(史跡巡り1弾で紹介済なので解説省略)
この後、関ヶ原近くのお友達に教えてもらった
『戦国ロード』を気持ちよく走り〜🚗💨
【平塚為広碑】
この碑は『大谷吉継陣跡』の山を下りて道の東側にあります。関ケ原に隣接した垂井城主あってか、合戦ではいち早く西軍として参戦。その背景には大谷吉継と為広が盟友であったという話もあるようです。平塚隊は、大谷隊前方に布陣し、病身の吉継に代わって為広が両軍を指揮していたとされています。
因みにこの碑は平塚家子孫により建立されました。
〜“義”を貫き、“勇”を持ちて〜
平塚隊は関ケ原合戦時、大谷隊支援の為に自隊の進行方向を変え、裏切った小早川隊と激突しました。その時に詠まれた辞世の句には
『名のために 捨つる命は惜しからじ
終に留まらぬ浮世と思へば』
(名誉の為に殉じられるなら、自分の命など惜しまない。限られた人生なのだから)とあります。
これに対し大谷吉継は
『契りあらば 六つの巷に待て暫し
おくれ先立つ事はありとも』
(共に死ぬ約束があるのだから六道の分かれ道でしばらく待っていて欲しい。遅れて、あるいは先に死ぬことはあっても)と返歌しました。
その後の奮戦で為広は力尽きてしまいましたが、“義”を貫き、“勇”を持って戦った武将として、後世に語り継がれています。
小早川秀秋陣跡の麓駐車場にて🙌
本当は陣まで行ってみたい!
でも...看板の最上部見て😱「1.7km→」
😱😱😱💦無理〜😱💦
小早川陣は見るからに山の上‼️
1.7kmの登山だからね😱💦
でも...いつかは行ってみたい😌
(だから解説もお預け😤)
ここからは関ヶ原のお隣、垂井町🙌
【長束正家陣跡】
長束正家は豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。高い算術力の持ち主。関ヶ原の戦いでは大谷吉継と共に石田三成に協力します。
合戦では池田輝元隊と銃撃戦になったが、徳川家に内通していた吉川広家が全く動かなかったため、積極的に出撃できず、西軍が壊滅すると居城・水口城へと撤退しました。
長束正家陣跡は石碑とかなくて、代わりに桜がとても綺麗でした🌸
ただ...惜しくも散り始め😅
でもさくらショット撮れてよかったわ👍
毛利秀元と安国寺恵瓊の陣跡がありそうな、南宮大社へ⛩️
参道の入り口には大きな鳥居があり、桜も綺麗に咲いていました🌸
陣跡のありかがよく分からないので😅
とりあえず南宮大社【重要文化財】を参拝😌
舞殿(上)と拝殿(下)
厳かで、美しいです😌
奥に稲荷神社があるようなので、行ってきました✨
道中、幾つかの祠がありました😌
東照宮(左上)
伊勢両宮社(右上)
金敷金床社(右中)
荒御魂社(右下)
瓦塚(左下)
百連鳥居⛩️をくぐって〜
着きました!稲荷神社⛩️
南宮稲荷神社(上)
子安社(左下)
くぐり中の百連鳥居(右下)
稲荷神社の奥に池があり、さらにその奥にやっとお目当ての陣跡を発見🙌
【安国寺恵瓊陣跡】
毛利氏の政僧。
関ケ原の合戦では西軍として南宮山に布陣したものに吉川広家等の裏切りにより傍観軍になる。
合戦後、石田光成公らとともに京都六条河原で斬首されました。
案内看板によると、ハイキングコースをここから更に50分山を登ると毛利陣跡との事😱💦
またまた無理〜😱💦
ここまで15分ぐらい登ってきてるの!この先50分...あり得ないわぁ...💦
諦めましょ!🙌
最後に楼門・石輪橋と真っ黒ちゃん✨
満足じゃぁ〜〜🙌
今回も充実のぼっちFD😤👍
充実の関ヶ原史跡巡りでした🎶
今度はいつ、ぼっちFD行けるかなぁ😌