フェアレディZのdatsun280zさんが投稿したカスタム事例
2023年11月14日 14時47分
北米仕様の5マイルバンパー装着してます。このクルマを所有 してから17年ほど経ちました。その他38年ほど所有している240ZGも有ります。宜しくお願いします。
菅家安智さんをご存知だろか?
当時の鈴木自動車の正式公認で
SRS・SUGAYAを設立した。また
あのアイルトン・セナとのカートレースの世界を通して深い友情で結ばれた唯一の日本人で有る。
菅家安智さんは、1944年6月2日に東京
の墨田区で誕生した。大学を卒業後に、モトクロス選手として城北ライダースに参加後に1970年に
現スズキの公認でSRS・SUGAYAを設立した。ちなみに、SRSとは「スズキ・レーシング・サービス」を意味する。他には
SSクボの久保靖夫社長の弟さんでFL500のフォーミラーレースのエンジン供給で活躍した久保和夫さんが設立したSRSクボしか存在しない。
1978年に開催された、第2回ジャパンカートレースで、日本人として初めてアイルトン・セナを抜き去り、決勝レースで3位入賞を果たした。そして、アイルトン・セナは4位に終わった。菅家安智さんは、アイルトン・セナにとって生涯レースと言う自分の戦場で初めて負けた唯一の日本人となった。
その後、時は流れて1988年のF1グランプリで、ワールドチャンピオン争いをアラン・プロストと繰り広げていた
シリーズ最終戦のF1グランプリ・イン・ジャパンの鈴鹿サーキットで、レース開催前にアイルトン・セナから
「菅家安智」をレセプションパーティーに呼んで欲しいと関係者に要望が有った。
「菅家安智?」誰なんだ???
その当時のレース関係者たちは
誰も「菅家安智」の名前を知らなかった。
急遽、アイルトン・セナに鈴鹿まで呼ばれた菅家安智さんは、レセプション
パーティー会場の中で久しぶりの
アイルトン・セナとの再会が実現した。菅家安智さんの
後日談としては「やはり自分がレースで戦って負けた唯一の日本人の名前をセナの心の中に刻まれていたのだろう」と語った。
その後、アイルトン・セナは
1994年5月1日に、イタリアの
イモラ・サーキットで開催されたサン
マリノグランプリの決勝レースで事故を起こして死亡した。
まだ34歳だった。合掌。
(画像は、ネットからお借りしました。
申し訳有りません)