MR2のAW11・AW開発話・グループB・222Dに関するカスタム事例
2022年07月30日 18時37分
全国11億人のMR2ファンの皆様、こんばんは😃
MR2開発話続きでーす👍
時に、1980年代。過激化するWRC・“グループB”は世界中を熱狂の渦に巻き込んだ。
ランチア、アウディ、プジョー、ルノー、シトロエン、ポルシェ、フォード、日産、マツダ、三菱、そしてトヨタ……。世界中の自動車メーカーが、己の技術力と威信を。そして世界最速の栄誉と称号かけて、熾烈なまでのラリーカー開発競争を繰り広げた。
スポーツカーの理想、「ミッドシップレイアウト」。グラベルの神、「フルタイム式4WDシステム」。そして、500馬力オーバーを叩き出す「ハイパワーターボエンジン」……この三つを兼ね揃えた者こそがグループBを制する。極めて緩やかなグループBのレギュレーションの中、数々のモンスターマシンが世界中を駆け抜けた。
そして、日本車を牽引する国産メーカーとなっていたトヨタ。トヨタもまたグループBの覇者たらんと、日夜、研究開発を続けていたのである。
まずはグループB攻略の第1フェイズとして、FRのセリカに改造を加えたセリカツインカムターボを送り込む。そしてその間に、第2フェイズとなる、ミッドシップのMR2を4WDターボ化したグループBの決戦兵器を作り上げる……。これがトヨタのグループB戦略であった。
与えられたコードは「222D」。そして1984年、通称「グループB仕様MR2」の開発が始まる――
~222D、第1次試作車~
セリカが社内の激しい非難にさらされながらも確かな戦績を挙げる中、222Dの開発は進められる。都築だけでなく、後にA80型スープラの開発主査となる片山信昭を始め、初代MR2のマスターテストドライバーを務めた成瀬弘も222Dの開発に参加した。
特に成瀬の車両評価スキルは群を抜くものがあり、成瀬は10メートルから20メートル、222Dを転がしただけで、「都築さん、このクルマはココが悪いよ」と指摘してみせたという。それは、単に車の挙動がどうこうというだけでなく、その挙動がどういう原因で発生しているのか、それをどう調整したらいいのかまで的確に分析したものであったと言う。
「私(都築)が横に乗ってテストコースに出ていくと、コーナーで『いまこういう挙動が出たでしょ? これはここが悪いからだ』と言うわけ。車の重心やサスペンションの動き、遠心力の働きまで考えた理屈を言うんです。それを聞いてこの人は並みの人じゃないなと思っていたわけです」
まずは翌1985年の春。7台の222D第1次試作車が完成した。
エンジンの3S-GTEとトランスミッションを共に横置きでミッドシップレイアウトに配置し、当時開発中であったフルタイム式4WDシステムを搭載した第1次試作車。このマシンのスペックの詳細は不明だが、最大馬力は500ps以上。最大トルクは60kg/cm前後にも及んだと言う。
5月にはヨーロッパのTTEへと輸送され、同年4月にセリカを駆り、サファリラリーで優勝を飾ったユハ=カンクネンのドライブによってシェイクダウンが行われることになった。
オランダのユーロサーキットを始め、スコットランドの森林コース、ノックヒルサーキット。果ては英国陸軍の悪路試験路まで。ターマック、グラベル双方で行われた走行試験において、多くの問題が浮き彫りとなった。
特にTTEから指摘されたのは、その整備性の問題であった。ミッションケースの脱着に始まり、クラッチの交換、プラグの交換、スロットル系等々、短時間で整備をこなさなければならないラリーマシンなのにも関わらず、222Dのサービス性は、極めて悪いものであった。
そして、もう一つの問題は駆動系の脆弱性であった。222Dのあまりの高出力にアルミ製のミッションケースが保たず、用意された5セット全てがテスト中に破損。中には30分も保たずに壊れるものもあったと言う。
また、AW型MR2とさほど変わらない、短いホイールベースにトレッドの中でエンジンを横置きにしたことにより、重量配分や操縦性などの面にも問題が発生した。
これらは一重に、それまでトヨタに存在した設計思想、構造部品等を流用した結果であるとも言えた。エンジンが縦置きでなく横置きとなったのは、セリカやMR2を参考に、そして部品を流用することによってコストダウンを図るためでもあったが、その結果、ラリーカーとしては整備性が極めて悪いという致命的な欠陥を抱えることになってしまったのである。
~222D・第2次試作車の完成~
試験結果を受けてトヨタは、222Dのさらなるパフォーマンスの向上を図る為、エンジンを縦置きに配置した第2次試作車の開発着手を決定する。
エンジンの縦置き化は、サービス性と、運動性能の向上を図る上では当然の選択ではあったが、縦置きミッドシップ4WDを製作すると言うことは、構成部品の多くを専用部品として開発し直さなければならず、開発コストはもちろん、市販時の価格を高騰させてしまうことに直結するものであった。
当時、海外のマーケティング部に所属するトヨタ社員は、性能の向上の代償として、市販予定価格が上昇し続けることに相当頭を痛めたと言う。
そして1985年の年末。遂に222Dの第2次試作車、8台が完成した。
まだまだ続く〜😁