ゴルフトゥーランのフォルクスワーゲン・上総国分寺・上総国分寺跡 七重塔・NO WAR🙅♂️に関するカスタム事例
2022年08月04日 05時28分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
あと162回の投稿のうち、残り30回の神社仏閣⛩シリーズをクリアしないといけないので…
(自分で決めたルールですけど😅💦)
最近、神社仏閣⛩シリーズが急ピッチで進行しています😊
今回は第70弾ですね❗️
こちらは市原市の「真言宗豊山派 医王山 上総国分寺」です😊
まずは仁王門の前に停めさせて頂き、パチリ🤳
「上総国分寺」の社標を撮っていたら…
自分が映り込むという痛恨のミス😅💦💦💦
さて、こちらの「上総国分寺」についてですが…
そもそもCTの皆さんは国分寺ってご存知ですか❓
中央線の国分寺駅や東京の国分寺市でしょ〜
って、たしかにそうなんですが😆
国分寺というのは、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、「国分僧寺(こくぶんそうじ)」と「国分尼寺(こくぶんにじ)」に分かれるものなんです。
「国分僧寺」は男性だけ、「国分尼寺」は女性だけの寺院だったんですね😊
もちろん、東京都の国分寺市もこの国分寺が市の由来になるわけです。
で、ここには上総国に建立された「国分僧寺」がかつてあったんです。
でも、ちょっとややこしい話ですが…
今、案内している「上総国分寺」というのは、その後継寺院にあたるもので、かつての国分僧寺が今もなお現存しているわけではないんですね❗️
こちらは、自分的には気に入っているショットなんです😆
めっちゃ雰囲気ありませんかぁ〜
仁王門の手前右手には、「将門塔(宝篋印塔)」があります😊
案内板💁♂️には…
『市指定文化財
将門塔(宝篋印塔) 一基
将門塔は、もと菊間親皇塚古墳の墳丘に上に存在し、「将門の墓」として伝承されてきた。
しかし、塔身には応安第五壬子十二月三日の銘が刻まれ、将門の命日、天慶三年二月十四日と違い、さらに塔の型式も南北朝時代と考えられ、将門と結びつく点はない。
石質は、凝灰岩で、総高約一・五○メートル、基壇部の側面に二区の輪郭があり、複弁反花座は彫りが深い。
その上の基礎表面には輪郭が二区存する。
塔身は損耗が激しく、四面に種子を刻んだと思われるが、正面の「アク」の梵字が判読出来るに過ぎない。
隅飾りは、外側の直線が笠部の底辺に対して直立し、内側の弧線は二弧線となっている。
相輪は紛失して無い。』
仁王門の阿形像と吽形像の案内板💁♂️があります。
『市原市指定文化財
木造金剛力士像(阿形)附木造金剛力士像(吽形)
金剛力士は仏法の守護神として、阿吽一対の二像が寺の門や須弥壇に安置され、二王(仁王)とも呼ばれました。
本像は、西面して建つ国分寺仁王門の左右に安置されている一対の金剛力士像です。
市内に現存する中世の金剛力士像は、皆吉にある橘禅寺の木造金剛力士像(千葉県指定文化財)と当阿形像のみです。
像高は、阿形が二.一四五メートル、吽形が二.二○五メートルで、共に針葉樹材の寄木造りです。
阿形像は、動きのある体勢と表情に迫力と重厚さを保ちつつも、鎌倉時代前期の金剛力士像に比べると筋肉や衣文の彫り方がおさえ目である点などから、一三世紀末頃から一四世紀前半にかかる頃の作とみられます。
残念ながら頭部は江戸時代初期の補作ですが、本像は市内のみならず、房総の仏教彫刻史上重要な位置を占める秀作です。
また中世の上総国分寺の歴史を考える上でもかけがえのない歴史資料です。
吽形像は、江戸時代後期(寛政十二年頃か)の作で、全体の彫り方の形骸化は免れませんが、その寄木構造は阿形像の特殊な造りにならっており、学問的にも貴重です。
旧像にならう江戸時代の再興像として、阿形像と一揃いの二王像としての価値があり、附として一緒に指定いたしました。
なお本像は、平成十六年、寺と檀家有志の努力で再現修理され、当時の躍動感あふれる造形美がよみがえりました。』とありましたぁ😆
見開いた目といい、今にも動きそうな感じのする阿形像がこちらですね😊
そして〜
こちらは口を真一文字に閉じ、遠くを見据える吽形像ですね😊
こちらは仁王門を潜って右手にある鐘楼です😊
鐘楼は割と新しく改修されたのでしょうか。
こちらがご本尊の薬師如来が安置されている市原市の指定文化財「薬師堂」です😊
茅葺き屋根が凄いですね〜😄
立派な建立物という言葉よりも、綺麗な造りの建立物と言った方がピッタリくる感じです❗️
猛暑で🥵、汗がダラダラ💦💦と零れ落ちる状態ですが…
暫し見惚れていましたぁ😃
「薬師堂」の鰐口です😊
鰐口を鳴らしたくても鈴緒(すずのお)が上に括り付けられていて鳴らせなくしてありました😅💦💦
薬師堂の横には案内板💁♂️が…
『市原市指定文化財
国分寺薬師堂附厨子
国分寺薬師堂は、桁行三間・梁間三間のいわゆる三間堂といわれる形式で、正面に一間の向拝(庇)が設けられています。
また、周囲には、高欄を付ける切目縁がめぐります。
屋根は、茅葺の入母屋造で、建物内部には、内陣天井に植物文様の絵、外陣に竜及び飛天が描かれています。
また、内陣の須弥壇に置かれた厨子は、手の込んだ唐様に作られ、金・朱・緑の彩色が施されています。
清浄院国分寺に伝わる縁起によれば、元禄年中、当地に移り住んだ僧快應が寺の荒廃を憂い、一念発起して、建立の計画を立て、浄財を募るなど、再建に向けて尽力したことが知られていましたが、平成三年の薬師堂解体修理の際、建築部材の一部から、快應の名をしるした墨書が発見され、縁起の信憑性の高いことが、裏付けられました。
また、建築に携わった大工などの名前や出身地名などの墨書も発見され、建築は、惣社村の大工小三郎や有吉村(現千葉市)の伝三郎、五井村の半三郎など、彫刻等は、飯櫃村(現芝山町)の秋葉大治右衛門為久、牛熊村(現横芝光町)の松岡貞右衛門常久等の工匠により行われ、享保元年(一七一六)に完成したことが分かりました。』とありました😊
こちらが本殿になります😊
由緒ある国分寺の後継寺院だけあって、境内も綺麗に掃除が行き届いていますね❗️
本堂の扁額ですね😊
凝った彫刻が施されているわけでなく、意外とシンプルな扁額です。
昭和四十七年と刻まれているので比較的新しい扁額でしたぁ。
本堂の前には、弘法大師の像が…
「弘法大師一千百五十年記念」と刻まれていました😊
こちらは庚申塔等石仏群ですね😊
たくさんの石仏が並んでいました。
違う位置から庚申塔石仏群を見たショットです😃
ココは日陰になっているので少し楽です。
あちこちからけたたましい蝉の鳴き声が響きます。
上総国分寺のラストショットは…
仁王門から薬師堂を見たところです😊
さてさて、道路に面したこちらの場所が、上総国にあった「国分僧寺」の跡になります😄
この奥に後継寺院である「上総国分寺」があるんですね😊
こちらは「上総国分寺跡」の案内板💁♂️ですね。
聖武天皇の詔によって全国60ヵ所余りに建てられた「国分僧寺」と「国分尼寺」は、国立寺院で当時の仏教や文化の中心だったわけですね。
ココ、上総国分寺はその中でも規模が大きく、伽藍も良く整った代表的な国分寺でした。
主要伽藍の周りには、塀を巡らし、東西南北に門が開いており、南大門、中門、金堂、講堂が南北に並び、回廊に囲まれた金堂前庭の東には、なんと…
七重塔があったそうです😊
こちらが七重塔が聳え立っていた場所になります。
因みに法隆寺の五重塔が約25mで、上総国分寺に建立されていた七重塔は63mもあったそうです😵
ウルトラマンの身長が40mですから、その高さといったら凄いの一言ですよね❗️
それも人力だけで作り上げたわけですからね〜
この真ん中に映っているのが、七重塔の心礎と言われるもので…
直径1.8m、厚さ0.7.mです。
この上に打っとい柱を立てて七重塔の中心の柱にしたそうなんです😄
こちらにも案内板💁♂️がありますが…
現在の市原市役所と比較した絵が載っています。
市原市役所第2庁舎が約50mとのことなので、その高さはとんでもないですね。
だって741年の話ですからね🤯
市原市役所が50mなんですね〜
初代ゴジラの身長が50mなんですって😆
案内板💁♂️を拡大してみました。
こんな大きさだったんですね😵
さぁ「国分僧寺」を訪れたわけですから…
続けて「国分尼寺」にも行かないと🙅♂️ですよね❗️