ボクスターの衣浦荘・廃墟巡礼に関するカスタム事例
2021年08月10日 12時57分
廃墟シリーズその2。碧南市の衣浦荘に行って来ました。
この辺りには、特攻隊員の養成基地であった海軍航空隊明治航空基地があり、この衣浦荘は、海軍将校用の慰安所であった。
廃墟へ上がる階段は、いきなり地元からの通行禁止!
そして…ソレは、そこに存在した。
とても風変わりな建物である。
慰安所というのは、いわゆる遊郭に近いもので、特に将校用の慰安婦は、兵隊を相手にしない特別高級な花魁のような存在であった。
慰安所は、女も知らぬ間に出征し、お国の為に命を捧げる兵隊を慰安する為に存在していた。そこで働く慰安婦は、若い命を犠牲にして戦地へ向かう兵隊にとっては、誠に特別な存在であり、また慰安婦達もその事に誇りを持って兵隊を愛し、戦地へと見送ったのである。
蛇足ではあるが、ブサイクな朝鮮人自称慰安婦のBBAがヘリコプターやジープで、日本兵に強制連行されて、働かされていたなどと出鱈目を風聴している。大東亜戦争時に、ヘリコプターなど存在しない。
そこから解る事は、このBBAは、朝鮮戦争時の南韓国軍の第5種補給品であったという事である。
とてもひどい事をされたと言っているが、全てが納得出来る。
廃墟マニアの言うような負の霊気は、全く感じられない。むしろこの建物からは、賑わっていた頃の温かいイメージばかりが、心に飛び込んでくる。
おそらくここから飛び立って行った若き荒鷲達の思いをこの建物を通じて感じとっているからであろう。
今は駐車場となっている裏手。皆さんは、どう感じますか?
ここは、かつて酒保として活用された場所であろう。この軒下に机や椅子が置かれ、酒を酌み交わす将校や兵隊、女中、下の階段で酔っ払って語り合う者などのとても陽気な活気あるイメージが私には、しました。
東の玄関先。おそらく煙突の下が受付で、順番を待つ将校の暖を取るためのストーブの煙突であったかと思われる。
今は埋めたてられているが、眼下には衣浦の海が広がっている。対岸の半田港には中島航空機製作所があり、艦上攻撃機天山や偵察機彩雲が作られた。組みあがった航空機をどのように航空母艦に搭載したかは不明だが、半田港で手積みされた訳ではあるまい。非常に多くの搭乗員が必要とされたのである。
艦上攻撃機は、二人乗りであり、後部座席に搭乗するのは、観測員である。生きて帰るのは、熟練の観測員の腕一つだったと言われる。
レーダーやGPSなど無い時代、洋上の空母から飛び立ち、海図と距離計、コンパスなどから算盤を弾き攻撃目標へ飛んで行く、そして帰還せねばならないのだ。
敵戦闘機や対空兵器の攻撃をくぐり抜け、攻撃を完遂し、再び洋上の米粒に等しい母艦を見つけ出し、着艦する。空戦や空路間違い、被弾や悪天候等による燃料の消費などによる墜落、はたまた母艦消失など帰還出来る事の方が奇跡に近かったのである。
海戦時こそ、よく訓練された熟練のパイロットで多大なる戦果を得た海軍であったが、度重なる戦闘でその多くは、若い少年将校へと変わって行った。
その多くは、離艦したが最後二度と戻る事は無かった。この事から、特攻隊という発想が、必然的に生まれたのである。
おそらく、明治航空基地で養成された若き搭乗員たちは、中島で割り当てられた愛機とともに航空母艦に配属され、運命を共にされたのであろう。
その若者たちが成しえなかった女性への憧れや愛をこの場所で慰安婦たちは一心に受け止めた。それはある意味、崇高な行為であり、菩薩の如き愛を持たねば、なし得なかった事であったろう。
いずれにせよ、このあたりに負のエネルギーは、全く感じられないのだ。
むしろ神々しいオーラすら感じられる。おそらく英霊となった方々に、お守りいただいているのであろう。
戦後このあたりは、いわゆる赤線として栄えたが、売春禁止法にともない衰退する。
地元は、衣浦温泉街として生き残りを図るが、温泉が出なかった事もあり、旅館は廃業した。
現在では、旅館の建物もあらかた取り壊され住宅地となっている。
かつての駐車場。
現在残っている歓楽地は、衣浦荘下のこのホテルCeasarだけである。
自分も若い頃から、何度もお世話になっている♡
今回の考察もかなり長編となりました。最後まで閲覧された方ありがとうございます。終戦の日も間近です。英霊の方々に対し思いを馳せ、手を合わせていただけたなら、幸いであります。