シエロ洋介(立駐ソムリエ🍷)さんが投稿した宗吾霊堂・宗吾参道参拝・悲劇・公津の杜・先人に感謝に関するカスタム事例
2021年11月17日 01時08分
浮き足立ちすぎて 成層圏まで突破しそうです。 立駐で生まれ 立駐に育てられ、 立駐ソムリエ🍷になったうす暗い日陰者の物語✨ と時々廃墟。 YouTube https://youtube.com/@user-pk8mx4mx5p?si=fmwidx3u4TMj4wfS
いつも気になってた
「宗吾霊堂」に行きました。
仁王門
手を清めます。
木内惣五郎様
佐倉惣五郎様、宗吾様と称される方のお墓。
惣五郎様とその子4人が身代わりになってくれるという水子地蔵。
大本堂
四方から
入口がある変わったつくりです。
欠点だらけの人生でした。
薬師堂
水子地蔵
宗吾殿
奥の院
福沢諭吉が発起人で建てた
宗吾顕彰碑
大師像
宗吾霊宝殿
宗吾様にまつわる遺品などが収められています。
大本坊
僧が修行をする場所
鐘楼堂
ここからは紅葉🍁
など豊かな自然とともに
宗吾様のことについてふれていきます。
寛永から承応にわたり
佐倉藩家老による重税
飢饉により夜逃げや
道端で死んでゆくものも
数知れず。
百姓一揆が頻繁に発生し
藩の重役に嘆願しましたが
聞き入れられませんでした。
宗吾様も佐倉藩領主堀田正信公に門前で嘆願しましたが門前払いされます。
将軍の側近にも嘆願しましたが却下されてしまいます。
宗吾様は最終手段として
将軍様への直訴を決意。
家族に危機が及んでは
いけないと考え宗吾様は
家族と最後の別れをするため
江戸から佐倉へ帰ります。
印旛沼の渡し船の渡守甚兵衛
の命を張った助けを得て
(のちに甚兵衛は印旛沼へ身を投げた)
会いに行き、別れを告げ
将軍へ直訴するため雪道を行きます。
ときの将軍徳川家綱公が
上野東叡山寛永寺への
参拝帰りに宗吾様は直訴
します。
願書は取り上げられた結果
佐倉藩領民に課せられた重税
は緩和され苦しみから解放
されました。
しかし、これに腹をたてた
堀田正信公は宗吾様を
直訴の罪で捕らえます。
承応2年8月3日
宗吾様は公津ヶ原刑場にて
はりつけに処せられ
殉ぜられました。
そして宗吾様の妻子も
打ち首の慘刑に処せれてしまいます。
当時女の子は罪人でも
打ち首にするのはご法度
でしたが堀田公の恨みは
おさまらず男の名に改名
してまで処刑したという
残虐この上ない行いです。
宗吾様と妻子はその刑場に
僧侶によって埋葬されました。
その刑場というのが
ここ「宗吾霊堂」です。
皆さんお気づきでしょうか?
とてつもない量の石碑
建造物の多さ。
この量でなければ
鎮魂できないと考えると
納得できます。
ここ近くに「公津の杜」という
住宅街がありますが、
由来を知るとゾッとしますね。
実際宅地開発の際、
現場では体調不良が続出したそうな。
今自分が暮らしてる場所が
ある一家におきた残酷な事実の
お陰で成り立ってると考えると
自然と手を合わせていました。
本堂で
お守り買った。
お金に関するストレスが多いのでお財布に。
おみくじ。
あまりイイこと書いてない。