MR2の毎月11日はAW11の日・AW開発話・AW11・AWに関するカスタム事例
2022年07月11日 20時02分
全国11億人のMR2ファンの皆様、こんばんは😃
毎月11日はAW11の日👍
さて、MR2開発話続き〜😁
いよいよ、悲運の伝説のMR2登場します😆次回で😁笑
昭和58年10月、東京モーターショーにて、コンセプトカー・SV-3が発表される。長らく開発が噂されて来たトヨタのミッドシップスポーツ。それが遂に公の場に姿を現した瞬間であった。
既に幾度も各マスメディアがこぞってスクープに成功してきたトヨタ・ミッドシップ。それが遠くない内に量産・市販されるであろうことは誰の目にも明らかであった。
日本中が日本初となるミッドシップの誕生に沸き立つ昭和58年12月、また一つのスクープがもたらされることになる。報じたのは、カートップ誌、それの昭和59年1月号……その内容は「トヨタに4WD仕様のミッドシップが存在する」というものであった。
もしこれが事実なら、トヨタはMR2をベースとしたラリーカーを実戦へと投入するだけでなく、この4WDターボ化されたMR2も量産・市販されることになる。結論から言えば、スクープと予想は当たっていた。トヨタはMR2を4WD化し、ターボチャージャーで武装したラリーカーの開発を行っており、市販化される予定も存在していたのだ。
……だが、そのグループB仕様MR2が表舞台に登場する日が訪れることは永遠になかった。勝つ事を宿命づけられながらも、戦うことすら許されなかった悲運のマシン。「222D」、これは時の流れに埋もれた、もう一台のMR2の物語……
アスファルトを、石畳を、汚泥を、森閑を、熱砂を、氷雪を……世界のありとあらゆる公道と環境を駆け抜ける『ラリー』。1973年には、その最高峰である『WCR』(当時の名称)が開催されるようになり、そこでは、世界中の自動車メーカーが、その技術力と威信をかけて、熾烈な闘いを繰り広げていた。
当時のWCRのカテゴリーは「グループ4」と呼ばれるものであった。 「連続する24ヶ月間に400台」というレギュレーションの中で行われる『グループ4』。その中で、その後のラリーの方向性を決定づける、様々な強力無比なマシンが生み出された。
フェラーリ・ディーノのエンジンをミッドシップレイアウトに搭載した『ランチア・ストラトス』。もはやラリー専用のスペシャルマシン以外の何者でもなかったストラトスは、1974年から1976年まで。3年連続でマニュファクチャラーズ・チャンピオンに輝いた。
そして1981年シーズンには、アウディが世界初のフルタイム4WD機構である「クワトロ・システム」を実装した「アウディ・クワトロ」を実戦投入する。
まだ当時のラリーの主力は2WD。4WDシステムについてもパートタイム式が主流であり、 「フルタイム式4WDのラリーカーは構造が複雑で重量がかさむだけ」というのが当時のセオリーであった。その為、アウディ・クワトロの実力を疑問視する声は多かった。
だが、クワトロはデビュー戦のモンテカルロで、6本のSSで、他車を6分以上引き離すと言う圧倒的な速さを見せ付けた。結果はリタイヤとなったものの、フルタイム式4WDの優位性を実証してみせる。
以降、ダートを中心に走行するラリーにおいて、『もはや4WDでなければ勝てない』という考えが常識となり、4WD技術の開発競争が始まったのである。そして、マシンの変化と共に、ラリーの形態も姿を変えることになる。その一つが、今や伝説となった『グループB』である。
1981年。FIA(国際自動車連盟)の下部組織であったFISA(国際自動車スポーツ連盟)によって、それまでのグループ1 - 8規定を廃止し、1983年シーズンから新規定に移行することが発表される。グループ1~8の規定を再編成し、グループN、A、B、C、D、E、F、Tとする。このうちラリー世界選手権(WRC)はグループBで行われることになった。
グループBのレギュレーションは、大まかに言えば「連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台を生産すればよい」というものであった。これは、ホモロゲーションの規定を緩やかにすることによってより多くのメーカーの参戦を可能とするものであったが、それ以上に、よりラリーに特化したスペシャルマシンの製作が可能となったという側面が大きかった。
結果。この、グループBカテゴリーにおいて、それまでの常識では考えられなかったようなマシンが、次々に登場することになる。
時間切れのため、まだまだ続く〜🤣笑