コルベット クーペの追悼に関するカスタム事例
2018年10月11日 22時43分
2輪/4輪/他、国内外のレースでデータロガーやECUを扱う電気系レース屋が副業。昔はバイクで8耐とか走ってました。 写真はほぼ携帯、時々NikonDfです。 C7 Z06にはこれから手を入れていく予定です。 よろしくお願いします。
今日はお葬式でした。
ごめんなさい。
きっと、こんな公開される場所で書くべきではない日記なので、興味を持たれた方だけ、どうぞ読み飛ばして下さい。
主観過多な駄文です。
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20代も終わりになってから走り始めた私のレース歴は、大して長いものではありません。
それでも、バイクレース仲間の死は、もう両手の指では数えられなくなりました。
初めての師匠は応援に行けなかったMOTEGIで還らぬ人になり、岡山耐久で優勝の喜びを分かち合ったペアライダーはトライアンフで去り、マン島TTにチャレンジした3人は、1人しか帰ってきませんでした。
コースサイドにはいつまでも主人の帰ってこないトランポが残されていたと聞きました。
(前田さん、あの年のモトルネでは私が2回優勝、貴方が1回優勝で、最終戦で決着つけようって表彰台で拳をぶつけ合ったのに。あの技研の1300とはもう戦えないんですか…)
SUGOで隣のピットだったノリックは鈴鹿に現れる事なく公道で天に召され、MotoGPで大活躍するはずだった天才祥也もサンマリノで。
いえ、そんな有名ライダー達だけではなく。
毎年毎年全日本を回りながら、何十回、ドクターヘリの離陸を見送り、医務室の前で右往左往し、心肺マッサージの横で居た堪れない時間を過ごした事か。
ヘルメットとグローブを握り締めて、横たわったライダーの横で震えながら立っている少女の姿を忘れる事など出来ません。
アジア選手権でもマカオGPでも、クラッシュして原型を留めぬマシンを横目に自分のセットアップを進めながら、二度と会えないライダーの名を聞き流してきました。
年に一度の鈴鹿8耐で、「去年の彼は?」「いや、〜のサーキットの事故で」
よくある話です。
ほんの一握りの、天才の中の天才で幸運にも恵まれた者だけが有名になり、人々の記憶に残ります。でも、その影で、名も無き無数のライダーやドライバー達がトラックを去って行きます。ほとんどの理由は資金不足と怪我でしょう。死も、無視できない確率で常にそこにあります。
彼らの事を、誰も覚えてはいません。
それで良いのです。そういうものです。
みんな、誰に強制された訳でもなく、自分の意志で、覚悟してコースに出て行ったのです。
だからこそ、どんなに性格が悪くても、大嫌いな悪人であっても、ライダー同士には最低限の敬意があります。
少なくとも、相手はたった一人でコースに出ていく勇気の持ち主であると。戦友のような同族意識があるのです。
ほんのコンマ数秒を削る為に
何十回もサーキットに通い、
何基もエンジンをブローさせ、
幾度も宙を舞って救急車で運ばれ、
数年分の収入をマシンに注ぎ込んで。
そうやってレースに染まった数年間が、私にもありました。
15年前に出会った彼が今年もレースにエントリーし続け、8耐出場を夢見ながらこの世を去っていった事は、本当に自分の死のように感じます。
幾度も悪い夢のように繰り返されるこの葬儀の、たった一回が自分のものだったとしても、なんの不思議もありません。
そんな名も無き一人のライダーの死に、私は「肯定」の気持ちを送りたいです。
この時代に、わざわざ危険で非効率で何の役にも立たない浪費を重ねて。最後には自分の命さえ投げ捨てて遺族を泣かせる。
誰にも理解されない愚かな行為です。
でも、そうせざるを得ない確かな何かが、自分の中に有る人間が居ます。
どうしても、他の事では替えられないのです。
危険な事も人に心配や迷惑をかける事も重々分かっていながら、どうしても自分の限界の先まで行きたいという欲求に逆らえないのです。
どうしてなのか。
私は生物学者として(大学院では分子生物学を専攻していました)思うのですが、そういう種類の人間が、一定数、生まれて来るのだと思います。
そういう人達は、何十万年かの人類の歴史の中で、殆どは無駄死にしながら、新天地を開拓してきました。彼らが居たからこそ、人類はアフリカから南米のホーン岬までその生息圏を広げる事ができました。
(こういう、無謀で特殊な人間でもなければ、いったい誰が、先も見えない水平線の彼方に向かって漕ぎ出すというのでしょう?)
これは、俗に「冒険遺伝子」と呼ばれる突然変異的な遺伝形質に他なりません。
種が残っていくのに、大半は安定・保守志向の個体を、そして全滅しても問題ない程度の少数の探針(プローブ)を冒険に出します。1万回のうち9999回失敗しても構いません。1回でも成功すれば生息圏が広がるでしょう。良く出来たものです。
冒険遺伝子の所有者は、自分の意志とは半ば関係なく、「そのように生まれつく」のだと、私は思っています。
この平和で人が地に満ちた現代でも、こういう人間はまだ生まれてきます。山や海で残り少ない未踏の地を求めて冒険したり、各種競技に没頭したり、欲求を暴走させてチンピラみたいに人に迷惑をかけながら、無為な危険に身を晒している事でしょう。
そう、多くの者は、このどうしようもない気持ちの持って行き場が無いのではないかと思います。
そんな人間がレースに出会えて、それに没頭出来たなら、それは僥倖と言ってもいい幸運です。
死は全ての終わりで、取り返しのつかないものです。でも、どんな生き方をしていても、現状ではやがて死にます。(電脳化や再生技術による不死にはまだもう少しかかるでしょう)
それならば、本人が納得できる生き方・死に方に勝るものは無いと思います。(窮極の我儘ですが)
私は、彼が「これなら死んでもいい」と思えるものに出会えた事を心から喜びますし、その延長としての死も肯定したいと思います。
大多数の人に理解されず、否定されたとしても。
ゆたぽん
色々、楽しかったよな
よくわかるよ
良かったな