シビックのシビック・旅・恵林寺・新府城・いいね&フォロー&コメントありがとうございますに関するカスタム事例
2024年05月05日 22時42分
愛知出身。Xとかみんカラは「しばしば」と名乗ってます。 2022/5/16より日本一周🗾🧳 →7/6無事に帰還しました🎉 神社仏閣や城跡、古戦場などに出没する歴史好きです⛩️🏯 基本陰キャなので、フォロー等はかなり受け身になります…😅 車については…無知なる発言も飛び出るかもですが(笑)よろしくお願いします!
みなさんこんばんは🌙きのすけです!
今回の旅も無事に終えることができました🏠
最終日の様子をお届けします!
信玄公のお父様の銅像があれば、御子息の銅像もある。甲斐大和駅にあるのは武田勝頼公の像。実は昨日の夕方に甲州市を訪れ、信玄公の後継である勝頼公の史跡を回りました。
勝頼公といえば教科書でおなじみの長篠の戦いで敗れたことという不名誉な事績がどうしても第一に出てきてしまいがちです…
実際に長篠の戦いの7年後の1582年に織田家の侵攻により勝頼公は自害。大名としての武田家は滅亡します。
しかし実際には稲作には向かない甲斐国から脱却すべく、名将と名高い父・信玄公時代からさらに領土を広げ武田家の最大版図を築きました。また広大になった領土を管轄すべく交通の要衝に新たに城を築くなど、領土経営の腕は非凡なものであったと思います。
命運を分けた長篠の戦いでは武田家が騎馬隊による突撃のみの戦法を取ったと思われがちですが、武田方も鉄砲隊を率いており、織田方のような効率的な運用ができなかっただけで、その有用性を取り入れていたことから、決して猪突猛進な武将ではないことも伺えます。
勝頼公は父信玄公が滅ぼした諏訪家という家に生まれ、そのことから信玄公や古くからの武田家臣から信頼されていなかったという生まれながらの不運がありました。その中で信玄公ですら統治に苦心した甲斐をまとめ、自身に対して疑心暗鬼になっている家臣を率い続けたという苦難は、想像を絶するものであったに違いありません。
勝頼公が最期を遂げた甲州市の景徳院には共に最期を迎えた夫人と御子息にして武田家最期の当主・信勝公とともに静かに眠っておられます。
近年は映像化作品でも悲劇の当主または信玄公の後継として勇ましく振る舞う姿に描かれることが多く、昨年の大河ドラマどうする家康では眞栄田郷敦さんが、勇壮な勝頼公を演じておられました!
同じく甲州市にある恵林寺。
鎌倉時代末期に創建され、応仁の乱で廃れてしまうものの信玄公が再興し、以来とても大切にされていたお寺です。
武田家滅亡の際に信長公に敵対していた人物を匿ったことで、恵林寺は焼き討ちにされてしまいますが時の住職・快川紹喜和尚は涼しい顔で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と唱えながら炎の中に消えていったという出来事で有名です。
焼き討ちを逃れた僧が徳川家康公の命で恵林寺を再建し、江戸時代には五代将軍・徳川綱吉公の側近で甲府藩主であった柳沢吉保公にも大切にされ、江戸時代から近代を生き抜きました。
禅宗らしい立派なお庭が美しい他、とても人懐っこいかわいらしい猫ちゃん🐱がお出迎えしてくれますよ!
今回最後に立ち寄ったのが新府城跡
先述の勝頼公が交通の要衝に新たに築いた城がこちらです。
勝頼公も当初は昨日訪れた躑躅ヶ崎館を本拠地としていましたが、1581年に利便性の高いこちらに本拠を移しました。国主の住まいということで、複数の曲輪が張り巡らされ、大規模な兵士を駐屯させることができたようです。
しかし本拠地を移転した頃は織田家との抗争は激化しており、勝頼公をは甲斐の奥地で体勢を立て直すためやむを得ず新府城を退去。
敵に利用されないためにも焼失させてしまいました。勝頼公が在城されたのかわずか二ヶ月あまりとされており、まさに幻の本拠地でした。
遠方に出かけたものの、旅が終わるのはあっという間でした…😢
ロングドライブで新マフラー音を楽しむためいつも音楽を聞きながらドライブしますが、今回はあまり聞きませんでした。運転している間マフラー音が本当に心地よくてやっぱり交換してよかったと感じました!
次の旅の前にまたいじれたらいいなと思います。
ご覧いただきありがとうございましたm(_ _)m