718 ケイマンのポルシェ・伊藤左千夫記念公園・成東町・NO WAR 🙅♂️に関するカスタム事例
2022年04月03日 06時09分
いいね!をいただいた皆様、フォローしていただいている皆様どうも有難うございます❗️ 初めて購入した車が新車で買ったゴルフ2。それから、かれこれドイツ車ばかり20台近く乗り換えています。E46やE90、オペルなんかも乗りましたが写真がほとんど残っていません。 ということで、自分の自己満足の為だけに写真をアップしています😅 そんな…車好きのちょい悪オヤジですが、宜しくお願いします。 フォロー数稼ぎの方はご遠慮ください。
昨日の山武市歴史民俗資料館の駐車場🅿️にクルマを停めたまま…
野菊の路を歩き🚶♀️、「伊藤左千夫記念公園」に行きました😊
3〜400m位ですかね🚶♂️
途中、JR東金線の小さな踏切を渡り…
辿り着きましたぁ〜😊
伊藤左千夫記念公園❣️
ホントに山武市成東町は、伊藤左千夫オンリーでグイグイ押してきますね🤣
まぁ、小さな字でいっぱい書いてあります😆
『伊藤左千夫記念公園
伊藤左千夫は、元治元年(一八六四)八月十八日、成東町殿台に父良作、母なつの四男として生まれた。
本名 幸次郎。
左千夫出生時は、田畑二町六反、山林三町五反を有する地主農家であったが、先祖は代々松尾藩に仕える武士の家柄であった。
明治六年四月、嶋に小学校が開校、左千夫はここで三年間勉学に励み、さらに佐瀬春圃の漢学塾に入って学業を続けた。
当時は漢学が中心で、「唐詩」「十八史略」「史記」「論語」「孟子」「春秋左氏伝」などを、今関琴美、大関剣峰、佐瀬春圃、伊藤良作ら漢学者から学んだ。
明治十四年二月、元老院に建白書を送った左千夫は四月、政治家を志して上京、明治法律学校に入った。
しかし、半年で眼病のため帰郷、挫折感をもちながら農業に従事した。
明治十八年一月、「書置候事」を残して再度上京、長年住みなれた殿台を後にした。
上京後は京浜間の牧場に従事、明治二十二年四月、本所茅場町三の十八番地に「乳牛改良社」を設立、独立して牧場を営むことになった。
やがて、同業者の伊藤並根と交友、茶の間・短歌をたしなみ、短歌会や吟行会にも出かけるようになった。
明治三十三年一月、新聞「日本」に短歌三首が入選したのを機に正岡子規に入門、以後歌人としての道を歩むことになった。
子規没後、「アシビ」を創刊、このあと後継誌の「アララギ」の主導的な立場にたって、写実短歌をひろめ、根岸短歌会の歌壇的位置づけにつとめた。
一方、写生文や小説も書き、写生文「牛舎の日誌」「一夜旅」「千本松原」など二十四編、小説「野菊の墓」「春の潮」「隣の嫁」「分家」など三○編を残した。
郷里を出奔した左千夫にとって成東は限りない愛郷の地であり、何回となく帰郷して思郷の思いを歌や文章に残している。
「紅黄録」では、成東の停車場を降りて町形をした家並みを出ると、なつかしい故郷の村が目の前に見える。
十町許り一目に見渡す青田の田んぼの中を真直ぐに
通った県道、其取付の一構へ、吾生家の森の木の間から変わりなき家倉の屋根が見えて心も落ちついた。と書いている。
また、歌には次のようなものがある。
夏休み家恋ひ来れば坂を出て家の森見ゆわが家の森
椎森のわかば円かに日に包ひ往来の人等みな楽しかり
心ぐく波の遠音の成東なる梅咲く宿にまといせりけり
久々に家帰り見て故さとの今見る目には岡も河もよし
現在、成東町殿台に生家、茶室唯真閣、歌碑、伊藤左千夫記念館があり、展示室には左千夫の五十年にわたる生涯の遺品、遺墨などが展示されている。
左千夫は大正二年七月三十日、五十歳の生涯を閉じたが、アララギ派歌人また小説家として、常に感性と情熱をもって暖かみのある文学を残した。
そして、島木赤彦、小泉千樫、斎藤茂吉、中村憲吉、土屋文明など多くの門人を育成し、アララギ派文学の基盤をきずいた功績は高く評価されている。
晩年、左千夫は「自分は明治の歌人伊藤左千夫として後の残ることを名誉とする」と言ったが、この言葉は左千夫生涯の芸術の軌跡にそのままあてはまるものであろう。
ここに、郷土の歌人伊藤左千夫の功績をたたえるとともに永く顕彰して、左千夫記念公園を設立する。』
この文章を読むと〜
山武市歴史民俗資料館ではなく、伊藤左千夫記念館って書いてある🤣🤣🤣
こちらの歌碑は💁♂️…
『野菊の歌
秋草のいづれはあれど露霜に
痩せし野菊の花をあはれむ
檜扇の丹づらふ色にくらぶれば
野菊の花はやさしかりけり
秋立つと思ふばかりを吾が宿の
垣の野菊は早咲きにけり
手弱女の心の色をにほふらむ
野菊はもとな花咲きにけり
堅川の野菊の宿は初芽過ぎ
二の芽摘むべく群生ひにけり』
『ほろびの光
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ
露しとしとと柿の落葉深く
鶏頭のやや立乱れ今朝や露の
つめたきまでに園さびにけり
秋草のしどろが端にものものしく
生きを栄ゆるつはぶきの花
鶏頭の紅古りて来し秋の末や
我れ四十九の年行かんとす
今朝のあさの露ひやびやと
秋草や総べて幽けき寂滅の光』
「野菊の墓」の政夫と民子の像です。
記念公園のど真ん中に造られています。
民子は、聖子ちゃんを模して造られたわけではないですね〜😆
こちらには、アララギ派の8人の歌人の歌碑が建てられています😊
こちらは「野菊の墓」碑ですね😊
『屋敷の西側に一丈五六尺も廻るやうな椎の樹が四五本重なり合って立って居る。
村一番の忌森(いもり)で村じゅうから羨ましがられて居る。
茄子畑といふは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当たる裏の千栽畑。
水のやうに澄みきった秋の空、日は一間半許りの辺に傾いて、僕らふたりが立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。
此辺一体に高台は皆山林で其間の柵が畑になって居る。
「まァ政夫さんは何をしてゐたの。私びっくりして……まァ綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれったら、私ほんとうに野菊が好き。」
「僕はもとから野菊がだい好き、民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振ひの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思ふ位。」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のやうな人だ。」』
野菊の路を通って🚶♂️
山武市歴史民俗資料館に戻ってきました😊
随分前に読んだ「野菊の墓」ですが…
こう見えて、昔は純文学が好きだったんですよ😆
立原正秋の生家も行きましたし、水上勉(売れない頃は推理小説を書いていたが、純文学の作家)の家を訪ねてサインをいただいたこともあるんですよ〜